Side 黒
常夜灯の暖色だけが仄かに光る、薄暗い部屋。
俺は右手を伸ばしてスマホを掴んだ。ベッドに寝転がったまま電源ボタンを押すと、一気に眩しい画面が視界を覆いつくして思わず目を細める。
「まだ12時前か…」
もういいや。さっき飲んだビールのアルコールが残ってる気がするけど、半ばやけくそになって俺は布団を剥いで起き上がる。薄い毛布にくるまってたって、頭をぐるぐると回る思考は止まらない。
適当にシャツに着替え、髪もそれなりにセットし直す。
鞄を持って、当てもなく家を出た。
終電も近い駅のホームは、仕事終わりのサラリーマンやらでごった返していた。
気のままに電車に乗り、人の流れに押されるようにしてどこかで降りる。人々の隙間から見えたホームの駅名は、「新宿駅」だった。
そのまま流れて街へと出る。今までにも何度か来たことはある。友達とも来たが、こうやって一人で来ることのほうが多かった。
通行人を照らすネオンサインを見ていると、目が痛くなってくる。
夕方まで降っていた雨で、地面が濡れている。水たまりに街灯が反射していた。
「っすいません…」
よそ見をしていたからか、前から来た人にぶつかった。相手は何も言わずに去っていく。
脇にでも逸れようか。
俺は方向転換をして、大通りから脇道に入る。やはりそこも飲み屋で溢れている。
しばらくぶらぶら歩いていると、ふと一つの看板に目が留まった。
「Bar Light in darkness」
闇の中の光、といったところだろうか。黒地に白抜きで明朝体。至極シンプルな看板である。
バーか。最近はひたすらにビールをあおるだけだったから、たまには落ち着いた雰囲気もいいかもしれない。
俺は吸い込まれるように、看板の掛かる建物の階段を上がった。
夜の俺の部屋みたいに、小さな間接照明だけの廊下。進んだ先に、同じ看板。ドキドキしながら黒塗りのドアノブを握ると、ギイッと軋む音とともに開いた。ベルはないようだ。
「いらっしゃいませ」
少し高いけれどハスキーな、魅力的な声がした。
「一人ですけどいいですか」
もちろんです、とマスターだろう男性が言った。「お好きなお席へ」
客はお年寄り一人だった。店内には静かな音楽がかかっている。
カウンターの席に着き、上着を脱いだ。カジュアルだけどしっかりした服装にしてきてよかったな、と思った。
「ジントニックをお願いします」
とりあえず無難なものを。ずいぶん前、まだお酒を覚えたての頃に先輩に教えてもらった順番を律儀に守る。
「はい。ただ今」
バーテンダーは、黒のベストと蝶ネクタイの似合う若者だった。たぶん同じくらいの年齢だ。
「初めまして、でよろしかったですか」
そう問われ、うなずく。「ええ。たまたま看板を見つけて、飲みたかった気分なので…」
「そうなんですか。……お強いほうで?」
一瞬考えて、「普通かな。最近はけっこう飲んでるんですけど」
と言ってもほとんどがやけ酒だった。
やがて目の前にグラスが出され、「いただきます」と会釈してから口をつける。ジンは冷たくて爽快で、悩みが吹き飛んでいきそうなくらい気持ちが良かった。
「美味しいです」
マスターは柔らかな微笑を浮かべた。
ジントニックを飲み進めているとき、俺はふと時計を見やった。とっくに0時を過ぎている。
「ここは何時までですか?」
重要なことを訊き忘れていた。時間も考えないといけない。
「朝までやっていますよ」
えっ、と俺は驚いた。仕事に支障はないんだろうか。
「…お仕事は…」
問うと、「これだけです」とあくまで軽い返事。
「どうしてですか?」
マスターはふと真剣そうな表情になった。「……夜型っていうか。その、寝ないようにしてるんです、夜に。眠っちゃうから」
俺は目を見張った。どういうことだろう。でも問うたらさすがに失礼だ。
「じゃあ、俺も朝までいようかな…」
どうせ帰ったって、寝られない。
俺の身体はいつからか睡眠を拒否していた。脳は欲しているってのに。
病院に行ったら、「不眠症」だなんてあっけなく病名がついた。
眠れないんならいい。ほとんど諦めた俺は、夜を漫ろ歩く。
「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」
そうマスターが言ってくれて、俺は久しぶりの嬉しさを感じた。
乾いた心に、優しい笑みと涼やかなカクテルが沁みるようだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!