テラーノベル
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侯爵様が振り向く前に、私は踊り場から逃げ出した。
足音を殺して階段を下り、渡り廊下を走り、洋館の部屋に滑り込む。
寝台に潜り込んでからも、しばらく体の震えが止まらなかった。
翌朝、厨房に下りると、侯爵様はいつも通り卵を焼いていた。
「眠れたか」
「……はい」
嘘をついた。侯爵様は、そうか、とだけ言った。
目の下に、うっすらと影ができている。この人も、眠っていないのだ。
皿の上の卵焼きは、端だけが少し焦げていた。
「今日は華族会館で遅くなる。昼は包んでおく」
「はい」
「夕方、和館から何か届いても、口にするな」
「はい。存じております」
侯爵様は、私の返事に小さく頷いた。昨夜、萩の間の前で額をつけていた人と、同じ人には見えなかった。
あの鍵のことを訊けたら、どんなに楽だろう。けれど訊けば、私が夜中に和館をうろついていたことまで話さなければならない。
私は黙って、焦げた端から卵焼きを食べた。
*
部屋に戻ると、東の窓から朝の光がまっすぐ射し込んでいた。
私は帯の内側から、懐紙に挟んだあの紙を取り出した。
三人目モ 同ジ道ヲ 辿ル。
何度見ても、嫌な字面だ。けれど、まだ読み切れていない気がしていた。
紙を裏返し、窓硝子に押し当てる。
光が半紙を透かして、貼られた切り抜きの影が裏返しに浮かぶ。それは、渡り廊下でも一度見た。
ルーペを当てて、切り抜きの影のない、白い余白のところをじっと見る。
うっすらと、灰色の跡があった。
文字だ。ごく薄い、かすれたインクの文字が、紙の裏面にいくつも並んでいる。
しかも、裏返しだった。
普通の人なら、汚れにしか見えないだろう。
けれど植字工は、活字を裏返しのまま読む。鏡に映した字も、私には表の字と同じだ。
「……月曜、駒、鈴」
声に出して読む。
「火曜、ハナ、駒。水曜、キヨ、ハナ」
その上には、もっと太い字の跡。「四月第二週 当番」。
女中部屋の柱に貼ってあった、あの当番表だ。
頭の中で、昨日見た紙と重ねてみる。字の並びも、名前の順も、隅に入った小さな傷のような点までも、同じだった。ただし移っているのは表の右上の四分の一ほどで、あとは切り抜きの影に隠れている。
指先が冷たくなった。
謄写版のインクは、刷ってすぐには乾かない。刷り上がった紙を何枚も重ねておけば、上に置いた紙の裏に、下の字が裏返しに移る。
この脅迫状は、糊が濡れたまま、刷りたての当番表の束の上に置かれていたのだ。
どこで作られたか。答えは一つしかない。
女中部屋の、あの小机の上だ。
けれど、わからないこともある。
女中が、なぜ嫁いだばかりの私を脅すのだろう。お駒さんの名を知ったのは、昨日のことだ。恨まれる覚えはない。
誰かに頼まれたのだとしたら。下剤の菓子も、脅しの紙も、もっと上の誰かの考えだとしたら。
「三人目も、同じ道を」と書かせた人は、前の二人の道を知っている人だ。
*
お鈴は、もう起き上がれるようになっていた。
女中部屋の隣の布団部屋で、膝に粥の椀を抱えている。お粥は、タキさんが自分で炊いたのだという。
「奥様、あたし、もう平気です。明日から働けます」
「よかった。本当に、ごめんなさいね」
「どうして奥様が謝るんですか。食べちゃったのは、あたしです」
お鈴は頬を赤くして、粥をすすった。
「それに、御前様が枕元にいてくださったって、ハナさんが言ってました。あたし、苦しくて覚えてないんです。もったいないことしちゃった」
本気で悔しそうな顔に、私はやっと少しだけ笑えた。
「無理しないで。……お鈴、一つ教えてくれる?」
私は声を落とした。
「女中部屋の『婦人の窓』の四月号。誰が持っていったか、知らない?」
お鈴は、きょとんとした顔をした。
「四月号なら、お駒さんが焚きつけにしちゃったって。もう皆読んだからって」
「焚きつけに」
「はい。でも、あたしまだ読んでなかったのに。キヨちゃんも怒ってました」
新しい号だけを、皆が読み終わる前に燃やす。
燃やしてしまえば、どこが切り抜かれていたのか、誰にも確かめられない。
お鈴は椀を膝に置いて、私の袖を引いた。昨日言いかけたことの続きだと、すぐにわかった。
「あのお菓子、捨てておいでって言ったのは、お駒さんです」
「そう」
「それから……お駒さん、このごろ夕方になると、裏門のほうへ行くんです。誰かと会ってるみたいで。いい人ができたのかなって、ハナさんは言ってるけど」
お鈴は首を振った。
「でも、あたしが見たとき、お駒さん、お金を数えてたんです」
*
昼。厨房の前の台に、竹皮の包みが置いてあった。
侯爵様は朝から華族会館に出かけている。出かける前に、私の分を作っておいてくれたのだ。
包みを開けると、握り飯が二つ。卵焼きが三切れ。
それから、四つに折った半紙が一枚、挟まっていた。
開くと、墨で一行。
「今日は焦げていない」
思わず、声を立てて笑いそうになった。
確かに、今朝の卵焼きより、ずっと綺麗な黄色をしている。
私は半紙をもう一度眺めた。
硬い、まっすぐな字だった。横画がわずかに右へ上がり、止めのところで筆を一度ぐっと押さえる。払いは短く、迷いがない。
この人の字を、ちゃんと見たのは初めてだった。
私は半紙を丁寧に畳んで、行李の中の、千鶴さんの手紙の隣にしまった。
なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。
*
夕暮れ。
私は庭を回り、使用人棟の裏手へ出た。
裏門の脇に、小さな稲荷の祠がある。赤い鳥居と、苔むした石の狐。祠の陰にしゃがめば、門の内側がよく見えた。
春とはいえ、日が傾くと地面から冷えが上がってくる。
藤棚の向こうに、和館の窓が一つずつ灯っていく。大奥様の居室、百合絵様の部屋、それから玄関寄りの家令室。家令室の灯りが一番明るい。真柴さんは、まだ帳簿をつけているのだろう。
嫁いで五日目の侯爵夫人が、祠の陰で女中を見張っている。誰かに見つかったら、きっと大奥様はその日のうちに私を本所へ帰す。
それでもいい、と思った。脅されたまま、黙って食べずにいるよりは。
日が落ちかけた頃、勝手口の戸が開いた。
お駒さんだった。前掛けを外し、髪を撫でつけ、あたりを見回しながら足早に裏門へ向かう。
門の潜り戸が、内側からそっと開けられた。
潜り戸の向こうは、細い坂道だ。
そこに、黒塗りの大きな自動車が一台、止まっていた。
運転手らしい制服の男が降りてきて、お駒さんと何か短く言葉を交わす。お駒さんの手に、白い封筒が渡るのが見えた。
風に乗って、切れ切れに声が届く。
「……茶会の日に……」
「お約束のものは、確かに……」
お駒さんは封筒を胸元に押し込み、運転手に向かって小さく頭を下げた。
自動車の後ろの扉に、金で紋が描かれている。
私は目を凝らした。
藤の花房が二つ、左右から垂れ下がって、輪を作っている。
見覚えがあった。
一昨日、家令室で礼状を書いたとき、宛名帳に祝いの品の目録が挟んであった。その目録の上に押されていたのと、同じ紋。花房の先が内側に巻き込む、少し変わった形の下がり藤。
その宛名は、藤堂子爵家だった。
コメント
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いやもう第8話、情報量やばくない!?!?!?😭✨ 植字工だから鏡文字読めるっていう設定、めっちゃ活きてるし、当番表の裏に透けた脅迫状の文字…背筋ゾッとしたよ…! あと「今日は焦げていない」って卵焼きのメモ、完全に侯爵様の不器用な優しさじゃん…!こういう細かい気遣いがもう大好き🤦♀️💕 裏門で藤堂家の自動車と金の受け渡し…誰が黒幕なのか想像するだけでドキドキが止まらないよ…次回が待ち遠しすぎて今夜眠れそうにない😇💫
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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