テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
藤堂子爵家の自動車は、お駒さんを潜り戸の内へ帰すと、静かに坂を下っていった。
お駒さんは封筒を押さえたまま、勝手口へ駆け戻っていく。
私は祠の陰で、膝を抱えたまま動けなかった。
家令室の宛名帳にあった名前が、なぜ裏門で女中にお金を渡しているのだろう。
*
翌日の午後、和館の縁側で百合絵様をつかまえた。
女学校から帰ったばかりで、海老茶の袴のまま、雑誌を膝に広げている。
「あら、三人目さん。何かご用?」
「百合絵様に、教えていただきたいことがあって」
教えて、という言葉に、百合絵様の大きな目がきらりと光った。
「下がり藤のご紋の、藤堂子爵家というのは、どういうお家なのですか」
百合絵様は、ぱちぱちと瞬きをした。
「どうしてそんなこと訊くの」
「御礼状を書いたとき、お名前があったので。どんな方々か存じ上げないと、失礼があってはいけませんから」
百合絵様は、ふうん、と疑わしげに鼻を鳴らした。それから、意地の悪い、けれど心底楽しそうな顔で笑った。
「まあ。ご存じないの?」
「はい」
「藤堂麗子様。お兄様の、元のご婚約者よ」
私は、膝の上で手を握った。
百合絵様の口は、一度回り出すと止まらなかった。
「麗子様はね、髪を耳の下でばっさり切ってらして、お洋服で、真っ赤な口紅で、煙草までお吸いになるの。婦人雑誌に文章もお書きになるのよ。あたくし、ずっと憧れてたの」
「婚約は、どうして」
「藤堂様のお家の事業が傾いて、あちらからご辞退なさったの。お兄様がお断りしたんじゃないわ。それからお兄様は小夜子お姉様をもらって、それから千鶴お姉様を……」
百合絵様は、ふと口をつぐんだ。
千鶴お姉様。その名を言うときだけ、声の調子が少し変わる。
「とにかく、麗子様のほうが、三人目さんよりずっとお兄様にお似合いだったわ」
最後の一言だけは、取ってつけたように意地悪だった。
「百合絵様。もう一つだけ、お願いが」
私は、百合絵様の膝の雑誌を目で示した。『婦人の窓』だ。
「四月号を、見せていただけませんか」
「四月号? 変なの。いいわよ、二冊あるもの」
「二冊?」
「あたくしのと、お母様の。お母様は目を通したら、すぐあたくしにくださるの。お母様の部屋には残さないのよ、こういう浮ついた雑誌は」
百合絵様は部屋から二冊を持ってきて、縁側にぽんと並べた。
私は一冊目を手に取り、目次を開いた。
「新しき婦人の道」。巻頭の随筆の見出しだ。
頁をめくって、その見出しにルーペを当てる。
道。しんにょうの最後の払いの手前、小さな撥ね。
そこが、ほんのわずかに欠けていた。
脅迫状の「道」と、寸分違わない欠けだった。
もう一冊も開く。同じ頁、同じ欠け。同じ号の同じ頁なら、どの一冊にも同じ欠けが出る。
そして、二冊とも、どこも切り抜かれていなかった。
「同」のほうも探した。巻末の読者欄の見出し、「同窓の友へ」。この「同」も、脅迫状のものと同じ大きさ、同じ書体だった。そこにも鋏の跡はない。
「何よ、そんなに熱心に。三人目さん、雑誌の見出しに恋でもしてるの?」
「……いいえ。ありがとうございました」
雑誌を返す手が、少しだけ震えた。
『婦人の窓』は、この屋敷に三冊しかない。大奥様の一冊と百合絵様の一冊は、ここにある。どちらも無傷だ。
切り抜かれたのは、三冊目。
女中部屋の、お駒さんが「焚きつけにした」四月号だ。
*
その夕方、大奥様の居室に呼ばれた。
大奥様は白檀の扇を膝に置いて、私が座るのを待たずに言った。
「明日、この家で、あなたのお披露目の茶会を開きます」
「明日、でございますか」
「親族と、分家と、日頃お付き合いのある御家の奥様方をお招きしています。藤堂子爵家の奥様とお嬢様も」
藤堂、という名に、背筋が強張った。
「志摩のお嬢さん」
大奥様の細い目が、初めてまっすぐ私に向けられた。
「あなたが久遠寺の嫁として人様の前に出るのは、明日が初めてです。この家の名に恥じない振る舞いをなさい。もし粗相があれば」
扇が、ぱちりと鳴った。
「その日のうちに、実家へお帰りなさい」
居室を下がると、廊下の角で真柴さんが待っていた。
「奥様。明日のこと、お聞きになりましたか」
「はい。急なことで」
「大奥様は、ああ仰いますが、御親族に早く奥様をお見せしたいというお気持ちもおありなのです。どうぞ、お気を楽に」
真柴さんは、手にした帳面を開いた。招待客の名と席順が、整った字で並んでいる。
「お茶は、女中のお駒が点てます。あれは前の奉公先で茶の稽古をつけてもらったとかで、大奥様のお気に入りでございます。奥様は、ただお受けになればよろしい」
ただお受けになれば。
私は頷いて、真柴さんの帳面の、藤堂子爵家の名の横に小さく書き込まれた「令嬢同伴」の文字を見ていた。
*
その夜、洋館の厨房で、私は侯爵様に話した。
裏門の自動車のこと。下がり藤の紋。お駒さんが受け取った封筒。茶会の日に、と聞こえたこと。
脅迫状のことだけは、まだ言えなかった。あの紙は、帯の内側にしまったままだ。
「茶会で、お駒さんが何かするつもりです。たぶん、お茶に」
侯爵様は、洗っていた鍋を置いた。
「……藤堂か」
低く呟く声には、驚きよりも、苦いものが混じっていた。
「麗子は、女中に金を握らせるような真似をする女ではないと思っていたが」
名前で呼ぶのだ、と思った。私のことは一度も呼ばないのに。
「私が茶を飲めば、皆様の前で倒れます。飲まなければ、大奥様のお茶を断った無礼な嫁になります。どちらにしても、私はその日のうちに本所へ帰されます」
「飲むな」
即座に言われた。
「あとは、私がどうにかする。茶会を取りやめさせる。お駒には今夜のうちに暇を出す」
それが一番早い。わかっている。
侯爵様が一言言えば、この家の誰も逆らえない。
けれど。
「いいえ」
私は首を振った。
「お駒さんを黙って追い出しても、お金を出した人は、また別の誰かを雇います。大奥様は、私が旦那様の陰に隠れたと思われるでしょう。親族の方々も」
侯爵様が、黙って私を見ている。
「私は、明日、皆様の前でお茶を前にします。……私がやります」
厨房の時計の音が、やけに大きく聞こえた。
侯爵様は、左の眉を指でなぞった。長いあいだ、そうしていた。
「何をするつもりだ」
「紙を読みます。それしかできませんから」
「……勝算はあるのか」
「あります」
本当は、五分と五分だった。けれど、そう答えた。
侯爵様は、ゆっくりと手袋をはめ直した。
「わかった。好きにしろ」
それから、少しだけ声を落とした。
「ただし、明日は私の隣に座れ。どこへも行くな」
*
茶会の朝は、よく晴れていた。
私は母の形見の、紺地に白い桔梗の小紋を着た。華族の奥様方の前に出るには地味すぎる。けれど、私にはこれしかない。
帯の内側に、脅迫状と掛け紙を挟む。ルーペを帯に差す。
大広間へ向かう廊下で、声をかけられた。
振り向くと、お駒さんが立っていた。
今日はいつもより念入りに髪を結い、真新しい前掛けをかけている。手には、茶筅と茶杓を載せた盆。
美しい唇が、にっこりと弧を描いた。
「奥様、本日のお茶は、私が点てさせていただきます」
コメント
1件
第9話、読み終えました。裏門のお金の受け渡しから一気に藤堂家が浮上してきて、謎がぐっと立体的になりましたね。百合絵様が「千鶴お姉様」と言うときだけ声の調子が変わる——これ、すごく気になる仕掛けです。そして「飲むな」と言った侯爵様が、最後に「明日は私の隣に座れ」と声を落とすところ。設定の積み重ねも、言葉の選び方も、本当に丁寧だと思いました。お駒さんが笑顔で立っている朝の場面、背筋が冷えました。次のお茶会、どうなりますか——楽しみにしています。