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定時を過ぎたオフィス
昨日の約束通り、健人さんは早々に席を立ち、私もそれから数分遅れてフロアを出た。
駅の改札前で待ち合わせるなんて、社内の人間に見つかるリスクが高すぎる。
だから私たちは、会社から二駅離れた静かな通りの角で合流することにしていた。
「…お待たせ。日菜子ちゃん」
背後から声をかけられ振り返ると、街灯の下、少し息を切らした健人さんが立っていた。
ネクタイを外し、ジャケットを腕にかけたその姿は
オフィスで見せる威厳のある部長とは違う、一人の年上の男性としての色気に満ちている。
「萩原さん、お疲れ様です。……誰にも見られませんでしたか?」
「ああ、裏口から出たからね。……行こうか、僕の車はあそこだ」
彼が指差したコインパーキングへ向かおうとした、その時だった。
「あれっ?日菜子さんと……部長!?」
心臓が口から飛び出すかと思った。
声のした方を見ると、同じ部署の若手社員・田中くんが、コンビニの袋を下げてこちらを凝視している。
「たっ、田中くん……!」
「こんばんは。こんなところで奇遇だね」
健人さんは一瞬で「完璧な上司」の顔に戻り
私の前に一歩踏み出して、さりげなく私を背後に隠した。
「部長、飯沼さんとご一緒なんですか? もしかして、これから接待か何かで……」
「いや。たまたま道で会ってね。彼女、体調が悪そうだったから、タクシーを拾うところまで送ろうと思っていたんだ」
淀みない嘘。
健人さんの声は落ち着いていて、一点の曇りもない。
田中くんは「ああ、なるほど! さすが部長、お優しいですね!」と納得した様子で
深々と頭を下げて去っていった。
◆◇◆◇
嵐が去った後のような静寂
田中くんの背中が見えなくなるまで待って、私は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
「…心臓が止まるかと思いました……」
「…ふふ、僕もだよ。あんなに肝を冷やしたのは、新人時代のプレゼン以来だ」
健人さんが苦笑しながら、私の肩を抱き寄せる。
そのまま彼は、私を促して暗い路地裏へと滑り込ませた。
「っ、萩原さん?」
「……今の、すごく嫉妬した」
「えっ?」
壁際に追い詰められ、逃げ場を塞がれる。
健人さんは私の両脇に手をつき、至近距離で私を見つめた。
「『ただの偶然会った部下』として、説明しなきゃいけないのが…。本当は、僕の可愛い恋人だって自慢したいぐらいなのにな」
彼の瞳は、街灯の反射で熱く、潤んで見える。
隠さなければならないもどかしさが、彼の中の独占欲に火をつけてしまったらしい。
「で、でもバレたら…私みたいな普通の人と部長がってなりそうで…」
「そんなに卑下しないで欲しいな…日菜子ちゃんとは同じ土俵にいたいし」
「えっ」
「…日菜子ちゃんは頑張り屋だし、可愛いところだってたくさんあるんだからさ、自然体でいいんだよ?」
「…ほんと、ですか…?」
「うん」
「…っ、萩原さんにそう言ってもらえると…少し自信が着きます…」
「ふふ、ならよかった」
「で、でも…もう少し、心の準備が出来てからでもいいですか…っ?その、みんなにお話するのは」
「わかってるよ。だから、今はこれだけで我慢する」
彼は私の頬を両手で包み込むと、田中くんに見られたかもしれない場所のすぐ近くで
深く、深いキスを落とした。
外の喧騒が遠のき、二人の混じり合う吐息だけが路地裏に溶けていく。
「……でも、日菜子ちゃん。車に乗ったら、もう我慢しないからね」
耳元で囁かれた低音の誓いに、私の膝はまたガクガクと震えた。
「く、くすぐったいです…!」
「ごめん、あまりにも可愛い反応するから…つい」
「いつも、ずるいです…っ」
「…でも、好きでしょ」
「……っ」
バレるか、バレないかのスリル。
それは、私たちの愛をより一層、甘く危険なものに変えていくようだった。
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