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『第九話 昨日の私』
「……亜土?」
サッカーボールを持った男子が目を丸くした。
千夏の身体が固まる。
「やっぱり亜土だ!」
その声で、全員が結衣の陰に隠れるようにしていた千夏を見る。
「千夏の知り合い?」
「あの……うん」
「中学一緒だったんだよ!」
「でも地元近いんだから、あるあるじゃね?」
結衣の元同級生が茶々を入れる。
サッカー男子は構わず千夏に一歩近づいた。
「亜土、久しぶりじゃん!」
「うん……久しぶり」
千夏は小さく頭を下げた。
「卒業してから全然見なかったな」
「……うん」
短い返事しか出てこない。
胸の奥がざわついていた。
「へぇ……千夏って真面目な優等生だから、あんたみたいなサッカー馬鹿と知り合いだなんて意外だね」
二人の再会に結衣が口を挟む。
「優等生?」
「うん、クラスじゃほぼトップ。学年でも上位だよ」
それを聞いて“サッカー馬鹿”と言われた男子は驚いた顔になる。
「マジ!?変わったよなぁ」
「変わった?」
結衣は不思議そうに首を傾げる。
千夏は唇を固く結んで俯く。
サッカー男子は懐かしそうに笑う。
「昔はテストの点、俺らといい勝負だったじゃん」
その時、千夏の肩が震えた。
「数学とか苦手だったよな」
「…………」
「英単語テストも毎回居残りしてたし」
「…………」
「俺たち、先生に”もう少し頑張ろう”って、よく言われてたしなぁ」
「…………」
悪気なさそうに笑いながら話す。
彼にとっては、ただの昔話のように。
「え、本当に?」
結衣が驚いた顔をする。
千夏は答えられない。
「亜土、頑張ったんだな」
中学の頃を知る彼の、その言葉は褒め言葉のはずだった。
でも、千夏には聞こえなかった。
──
頭の中に浮かぶのは、中学の教室。
返却されるバツだらけのテスト。
先生のため息。
母親の「一緒に頑張ろうね」の一言。
眠くても夜遅くまで机に向かった日々。
何度やってもわからなくて、涙が出たこと。
いくら成績が上がっても安心できなかったこと。
それを誰にも言えなかったこと。
全部。
全部思い出してしまった。
──
「……千夏?」
結衣が心配そうに覗き込む。
「だから最初、他人の空似かと思ったよ」
屈託なく笑いながら言う。
「だって昔の亜土と全然違うもんな」
その一言。
千夏の中で積み上げてきた何かが、音もなく崩れた。
「……おいっ!いい加減にしろ!」
結衣の元同級生がサッカー男子の肩を小突く。
「痛っ!なんだよっ!………あ、亜土?」
サッカー男子はやっと黙った。
全員の視線が千夏に注がれる。
千夏は思う。
みんなの表情でわかる。
きっと、情けない顔をしているんだろう。
「……結衣さん、ごめん」
やっとの思いで小さく言う。
「私、帰るね」
「え?」
結衣が戸惑う。
「ちょ、待って」
振り返って千夏は笑った。
いつもの笑顔。
優等生の笑顔。
「今日はありがとう」
そう言って歩き出す。
誰も追いかけられなかった。
──
駅前の喧騒が遠ざかる。
夕暮れの道を、一人で歩く。
努力した。
一歩。
毎日勉強した。
また一歩。
変わりたかった。
それでも『昔の亜土』という一言で、全部なかったことになった気がした。
きっと今頃、みんなで自分のことを馬鹿にして笑っている。
耳を塞ぎたい。
消えてしまいたい。
──
気付けば、いつものアパートの前まで来ていた。
二階を見上げる。
悠真の部屋。
窓には灯りがついている。
行こう。
そう思う。
だけど足が動かない。
だめ、こんな顔を見せたくない。
また「大丈夫です」と笑ってしまう。
気を遣わせてしまう。
それなら行かない方がいい。
千夏は俯いた。
そして踵を返す。
──部屋の中では。
ピスカが窓辺に座り、外を見ていた。
まるで誰かを待つように。
──続く
#年の差
西原衣都
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コメント
3件
今は優等生と言われているみたいだけど、それはそれで 「自分は優等生じゃないといけない」と、思い詰めちゃうんだろうなぁ😢 早く元気になって欲しいです……。
うわあ、今回ちょっと胸が痛かった……。千夏が過去を思い出して積み上げてきたものが崩れる瞬間、すごく伝わってきた。昔を知る人の何気ない一言って、本人にとっては全部を否定された気になるよね。悠真の部屋の灯りを見ながら「行きたいけど行けない」って葛藤するところもリアルだった。続き気になるわ、千夏の心がどう動くのか……🔥