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その喫茶店には、雨の日しか入れない。
看板もない。
地図にも載っていない。
雨が降る日、路地裏を歩いていると、ふとコーヒーの香りがしてくる。
その香りを辿った人だけが、扉を見つけられる。
私は、その日も傘を差して歩いていた。
朝から嫌なことばかりだった。
小さな失敗。
言えなかった「ごめんね」。
飲み込んだ「ありがとう」。
雨は、その全部を隠すように静かに降り続いていた。
ふと足を止める。
見たことのない木の扉。
真鍮の取っ手には、小さな文字が刻まれている。
『雨音を預かります。』
不思議に思いながら扉を開けると、カラン、と鈴の音が鳴った。
店内には誰もいない。
窓際の席に、一人の店主が立っていた。
「いらっしゃいませ。」
その声は、雨よりも静かだった。
「ご注文は?」
メニューを開く。
そこにはコーヒーも紅茶も書かれていない。
並んでいたのは、こんな名前ばかりだった。
『泣けなかった日の雨』
『誰かを想った夜の雨』
『大丈夫と言った日の雨』
『さよならを飲み込んだ雨』
私は迷ってから、一番最後の名前を指差した。
「……これを。」
店主は静かに頷く。
「少々お待ちください。」
やがて運ばれてきたのは、透明なカップだった。
中には雨粒が一粒だけ。
「お飲みください。」
半信半疑で口をつける。
その瞬間だった。
耳いっぱいに雨音が広がる。
屋根を叩く音。
傘を打つ音。
水たまりに落ちる音。
どれも違う。
でも全部、優しかった。
気づけば涙が一粒、頬を伝っていた。
私は泣きたかったんだ。
ずっと。
でも泣けなかった。
「雨は、不思議なんです。」
店主が窓の外を見ながら言う。
「空の涙だと言う人もいます。」
「でも私は、人が流せなかった涙を代わりに降らせているんだと思っています。」
外では、相変わらず雨が降っている。
誰かが笑った日にも。
誰かが別れた日にも。
誰かが一歩踏み出した日にも。
雨は何も言わずに降り続ける。
だから、人は少しだけ素直になれる。
私はカップを置いた。
不思議なくらい胸が軽かった。
「ありがとうございました。」
店主は微笑む。
「また雨の日に。」
外へ出る。
さっきまで冷たく感じていた雨が、少しだけ心地よかった。
空を見上げる。
灰色の雲は変わらない。
でも、その向こうにはきっと青空がある。
雨は、止むために降る。
涙も、笑うために流れる。
私は傘を少し閉じて、雨音を聞きながら歩き出した。
その日以来、雨の日は少しだけ好きになった。
もし今度、どこからかコーヒーの香りがしたなら。
私はまた、あの喫茶店の扉を探すのだと思う。
コメント
1件
「雨音を預かります」――この一文で一気に世界に引き込まれました。食べ物ではなく「流せなかった涙」を提供する喫茶店という設定がすごく好きです。透明なカップに雨粒が一粒だけ、その描写が美しくて。飲んだ瞬間に優しい雨音に包まれて、ようやく涙を流せる主人公の解放感にこちらまで胸がじんとしました。「雨は、止むために降る」という言葉が心に残ります。素敵な物語をありがとうございます。