※この物語はフィクションです。
実在の人物及び団体等とは一切関係ありません。
見知らぬ部屋に迷い込んだ私に、 誘拐犯(ウサギ)が言う。
「突然ですが、きみは僕に誘拐されました。お気の毒です」
目を覚ますと、私のそれまでの人生は消えてしまっていた。
〈1話〉
どこまでが夢で、いつから目が覚めてたのかわからない。
「ん……」
気が付くと、私はミルク色のラグの上に横たわっていた。
夢の名残を振り払うようにまばたきをして、きょろきょろと周囲を見渡す。
毛足の長いラグ、大きなソファー、小さなテレビ、ピンク色のカラーボックス、天井から吊るされた丸い照明。
私は見たこともない家具に囲まれて、眠っていたらしい。
「どこ、ここ……」
首を伸ばすと、ソファーの向こうにカーテンの開けられた窓があった。
薄い水色の空に雲が浮かんでるのが見えて、近寄るために身体を起こそうとして気づく。
「え、ちょっと、うそでしょ……っ!」
手と足が、動かない。
頭と体を捻ってあちこち見ると、私の両手首は腰のところで掌を合わせて縛られていた。
足首もぴったりとくっつけて縛られてて、動かせそうにない。
「は!?なにこれ、どうなってるの!?」
私の手足を縛ってるのは、新聞を束ねる時に使うような半透明のビニールヒモだった。
引っ張ってみても肌に食い込むばっかりで、こんなの引き千切るなんてできっこない。
それでも諦めきれずに芋虫みたいに体をくねらせると、頭がソファーにぶつかってしまった。
「痛ぅ……っ!」
目の奥で星が散る。
軽く当たっただけなのに、頭のてっぺんの辺りがやけに痛かった。
それをきっかけに、思い出したように痛みが増していって、目尻に涙が浮かぶ。
触って確かめたいのに、手が縛られてるからそれもできない。
膝とおでこをくっつけて、カブトムシの幼虫みたいに体を丸めた。
膝で涙を拭って痛みをやり過ごしながら、思案する。
この頭痛と縛られた手足は、きっと関係がある。
触れないから確かめられないけど、頭が痛いのは多分殴られたせいだ。
私を殴った誰かが、気絶した私をここに連れて来て、自由を奪った。
誘拐、監禁、身代金の要求、人質、暴力、死――。
そんな現実味のない、嘘みたいな言葉が頭の中を飛び交う。
「じょ、冗談じゃな――っ」
自分で思ったより大きな声が出ちゃって、慌てて口を閉じる。
だけど私の声が聞こえたみたいに、少し離れたところでガタガタと物音がした。
この部屋唯一のドアの向こうから、足音が近づいてくる。
――この部屋に、入ってくる……!
これから入って来ようとしてるのは、私をここに連れて来た誘拐犯だ。
ほとんど動けない私は、体を丸めて身構えるくらいしかできない。
ドアと現実から目をそらしたいのに、食い入るようにドアノブを見つめてしまう。
耳に心臓がねじ込まれたみたいに鼓動がうるさくて、一瞬が引き延ばされて永遠のように感じられた。
ゆっくりゆっくりと、ドアノブが回る。
――ガチャ。
「ああ、やっと目が覚めたんだ」
ドアノブに手をかけたまま、嬉し気に誘拐犯が言った。
ぴくりとも動けない私に、誘拐犯が長い足を動かしてゆったりと近づいてくる。
誘拐犯は私のすぐ目の前にいたけど、その顔を見ることはできなかった。
なぜなら――。
「ははは。全然起きないから、うっかり殺しちゃったかと思ったよ」
誘拐犯は、『白いウサギのお面』をつけていた。
半分以上が隠されてて顔はよくわからないけど、間違いなく男の人だった。
どうしよう。
身体の後ろで縛られた手も、足も、幾ら引っ張っても肌に食い込むだけだった。
肘を使って起き上がろうとしたけど、上手くいかずに頬からラグに崩れ落ちる。
誘拐犯は足掻く私を黙って見下ろしていたかと思うと、しゃがみ込んで顔を近づけて来た。
せめてもの抵抗に、私は膝同士をぎゅうっとくっつけて、じりじり後退ろうとする。
けど、すぐに後ろのソファーに背中がぶつかって、逃げ道はなくなってしまう。
「だれなの、あなた……。ここは、どこ?」
おそるおそる言葉を投げかけた。
けれど誘拐犯は膝に頬杖をついたまま、ぴたりと動かなくなってしまう。
誘拐犯は首を傾げて、なにも語らず、探るように私を見つめ続けた。
頭の先から爪先まで、何度も何度も誘拐犯の目が行ったり来たりする。
視線から逃れるように、顔を背けた。
「……な、なんとか言ってよ」
「なんとか」
精一杯の問いかけを 揶揄(からか)われ、私は唇を噛みしめた。
見知らぬ部屋で、前には誘拐犯、後ろにはソファー。
頭を殴られて、手足を縛られて、動けない。
逃げ道はなくなったんじゃなくて、最初からなかったんだ。
だってここは、誘拐犯の部屋なんだから。
「――さて」
見知らぬ部屋に迷い込んだ私に、誘拐犯が言う。
「突然ですが、きみは僕に誘拐されました。お気の毒です」
誘拐犯は手を伸ばして、私の髪に触れた。
前髪に触れ、耳の上を辿って、手は後頭部に辿り着く。
殴られたところを指が掠めて、痛みで肩が跳ねた。
「あらら。腫れちゃってるね」
「あなたが、やったんでしょう……っ」
「後悔はしてないよ?」
まるで自分がやったことがわかってないような、あどけない口調だった。
確かに言葉は通じてるはずなのに、会話はちぐはぐで、行動は私の理解を越えていた。
小さな子が蝶の羽を 捥(も)ぐように、アリの巣に水を注ぐように、きっとこの人はなんの罪の意識もなく私に手をかけることができてしまう。
脅されて乱暴されるより、無邪気に 甚振(いたぶ)られる方がずっとずっと怖い。
「ゆ、誘拐なんてして、タダで済むと思うの?」
はは、と可愛らしいウサギのお面の下から笑い声が聞こえた。
「そうだね。僕もどうせならツチノコを見つけた青年とかそういう感じで騒がれたいよ」
私だって誘拐の被害者じゃなくて、神隠しの生還者とかってちやほやされたい。
……そうじゃなくて!
「今ならまだ大丈夫だから、早く私を――」
解放して、と言うつもりだった。
だけど、え、待って。
舌が迷って宙に浮く。
私は、私は――。
「私は、だれ……?」
目を覚ますと、私のそれまでの 人生(記憶)は消えてしまっていた――。
〈続〉
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