テラーノベル
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私は配膳室で、カトラリーを磨いていた。磨いているつもりだったけれど、手はどこか上滑りしていて、布の感触だけがやけに残る。
「力、入りすぎてますよ」
不意に声をかけられ、顔を上げた。
隣に立っていたのは、大智だった。
いつも通りの執事服、いつも通りの穏やかな表情。
「……すみません」
「気にしなくていいです。今日は、誰でもそうなります」
そう言って、彼は私の手元を一度だけ見てから、視線を外した。
少し間が空く。
遠くで、別の執事たちが小声で話しているのが聞こえた。
言葉の断片だけが、断続的に届く。
「……探偵が……」
「……噂だけど……」
私がそちらに意識を向けたのを察したのか、たいちが小さく息を吐いた。
「探偵の話ですか」
「……はい」
否定も肯定もせず、そう答えると、彼は苦笑のようなものを浮かべた。
「来るらしい、とは聞いています」
「やっぱり……」
「ええ。でも」
彼は、磨き終えた皿を一枚、静かに重ねた。
音はほとんどしなかった。
「正直、意味はないと思いますよ」
その言い方は、強くも弱くもなかった。
事実を述べるような、淡々とした声。
「意味、ない……ですか?」
「この屋敷は、そういう場所ですから」
彼はそう言って、私を見る。
目が合った瞬間、何かを探るような視線を感じて、私は思わず視線を逸らした。
「事件が起きること自体が、もう日常になっている。
原因を探すより、業務を回すことの方が優先される」
「……それって」
「誰が悪い、という話じゃありません」
私の言葉を遮るように、たいちは続けた。
「ここでは、真実よりも秩序の方が大切にされる。
探偵が来ても、表に出るのは“許される答え”だけです」
私は、皿を持つ手を止めた。
「じゃあ……本当のことは」
「必要とされないことも、あります」
彼はそう言って、少しだけ声を和らげた。
「あなたが気に病む必要はありません。
花……あなたは、まだ来たばかりですから」
一瞬、呼ばれかけた音が、途中で変わった気がした。
でも、確かめるほどの確信はなくて、私は何も言えなかった。
「今日は、早めに休んでください」
彼はそう言って、その場を離れた。
背中を見送りながら、私は胸の奥に残った言葉を反芻する。
——意味はない。
——許される答え。
それは、慰めだったのか。
それとも、忠告だったのか。
分からないまま、私は再び布を手に取った。
金属の表面に、ぼんやりと自分の顔が映る。
その向こうに、整いすぎた屋敷の天井が重なっていた。
探偵が来ても、意味がない。
その言葉だけが、
妙に、頭から離れなかった
警察と探偵が屋敷を出ていったのは、昼過ぎだった。
重たい扉が閉まる音が、妙に大きく響いたあと、館は再び静けさを取り戻した。
まるで、最初から何もなかったかのように。
執事長は最低限の指示だけを残し、各自を持ち場へ戻らせた。
誰もが言葉を控え、必要な動きだけをこなしている。
——そのはずだった。
玄関ホールに、再び人の気配が流れ込んだのは、午後三時を少し回った頃だ。
「……誰だ?」
小さなざわめきが起こる。
振り向いた先に立っていたのは、警察でも探偵でもなかった。
黒に近い深い紫の着物をまとった、痩せた老人。
背は低く、年齢は分からない。
だが、その場に立った瞬間、空気が一段沈んだ。
「失礼」
老人は、玄関の中央で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「私は、呼ばれて来ました」
「……呼ばれて?」
執事長が一歩前に出る。
「こちらでは、そのような依頼は——」
「いえ。あなた方ではありません」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、屋敷の奥を“見る”ように細められる。
「この館そのものに、です」
空気が、わずかに張りつめた。
「私は霊媒師です。
名前は、どうでもいいでしょう」
誰かが、喉を鳴らす音がした。
「警察も探偵も、もう調べた。
それでも、終わらなかった」
老人は、そう言って一歩踏み出す。
「だから、次は“こちら側”の番だ」
執事長は、即座に拒否しなかった。
それが、この屋敷の異常さを、かえって際立たせていた。
「……勝手な真似は許可できません」
「もちろん。強制するつもりはない」
霊媒師は微笑んだ。
だが、その笑みは、人に向けられたものではなかった。
「ただ、一つだけ伝えに来た」
その瞬間、彼の視線が——
執事たちの列の中を、ゆっくりと滑っていく。
誰もが、息を詰めた。
そして。
その視線が、ぴたりと止まる。
花音の前で。
名を呼ばれたわけではない。
指を差されたわけでもない。
それでも、逃げ場はなかった。
「……この館で、鍵になるのは」
霊媒師は、はっきりと言った。
「“はな”の名を持つ者だ」
一瞬、世界が静止したように感じられた。
「はな……?」
誰かが、困惑した声を漏らす。
「花壇のことか?」
「屋敷の花じゃないのか?」
ざわめきが広がる中、霊媒師は首を振った。
「違う」
そして、花音を見る。
「人だ」
その言葉が、胸に落ちる前に、続けて告げられた。
「あなたは、すでに境目に立っている」
花音は、何も言えなかった。
否定しようにも、言葉が見つからない。
胸の奥で、ずっと感じていた違和感が、形を持って迫ってくる。
「安心しなさい」
霊媒師は、意外にも穏やかに言った。
「あなたが犯人だと言っているわけじゃない」
「ただし」
その一言で、空気が再び引き締まる。
「真実に近づく者は、必ず狙われる」
「……以上だ」
霊媒師は、それだけ言うと、踵を返した。
引き留める者はいなかった。
玄関の扉が閉まる音が、
朝とは違う重さで、館に残る。
誰もが動けない中、
花音だけが、自分の鼓動をはっきりと聞いていた。
“鍵”。
それは、守られるものなのか。
それとも、壊されるものなのか。
その答えを、この屋敷は、まだ教えてくれなかった。
その夜、花音はなかなか眠れなかった。
与えられた部屋は静かで、調度品も整っている。
それなのに、目を閉じると、この屋敷の闇がまぶたの裏に滲んでくる。
昼間、霊媒師が残した言葉が、頭の中で繰り返されていた。
——“はな”にまつわる名。
——事故として隠されたもの。
意味は、まだ分からない。
けれど、胸の奥がひどく冷えていた。
花音は、そっと息を吐く。
思い出さないようにしてきた記憶ほど、
こういう夜に、音もなく浮かび上がってくる。
兄のことだ。
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