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#シリアス
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紫香楽
明治の夜は、文明開化の音がする。
石畳を叩く馬車の蹄の音、夜気を切り裂く蒸気機関車の遠い汽笛。
そしてここ、帝都の社交場として賑わう高級料
『鳳凰館』から漏れ聞こえる紳士淑女たちの華やかな笑い声。
和洋が混ざり合い、急速に塗り替えられていくこの街の熱気は
給仕として働く私にとってもどこか遠い世界の出来事のようだった。
「雪!何ぼうっとしてるの。三号室の旦那様方がお呼びよ。早く行きなさい!」
「は、はい!ただいま伺います!」
女将さんの鋭い叱咤に背中を押され、私は慌てて着物の袂(たもと)を正した。
私はここで働く、しがない給仕係だ。
毎日、重たいお膳を運び、鼻につく煙草の煙やお酒の匂いの中を立ち回る。
決して楽な仕事ではない。
それでも、料理長が丹精込めて作る四季折々の膳を運び
客がその味に顔を綻ばせる瞬間を見るのは好きだった。
けれど、今日がいつも以上に……
いや、心臓が口から飛び出しそうなほど特別なのは
あの方がいらしているからだ。
「失礼いたします……」
指先の震えを隠すように襖を静かに開けると、そこには冷たく澄んだ空気が流れていた。
軍服を寸分の乱れもなく着こなした男性たちが数名。
その中心、上座に座るのが、私の憧れの人───
陸軍少佐、煌様だった。
氷の少佐。
部下たちからそう囁かれるほど、彼は仕事に厳しく
一切の妥協を許さない人だと聞いている。
確かに、その切れ長の瞳は刃物のように鋭く
高く通った鼻筋は冷たい大理石の彫刻を思わせる。
けれど、私は知っている。
彼が本当は、この激動の時代の中で誰よりも繊細で、優しい心を持っていることを。
それに以前、食料調達として森に向かう途中でスリに遭ってしまったときに、私から財布を奪った男を捕らえて財布を取り返してくれたことがあり
そのお礼に何かをさせてくださいと懇願したところ「…なら、時間のあるときでいいんだが、君の料理を食べてみたいんだ」と言われ
一度私の手料理をお出ししたところ、大層気にいられたのだ。
お得意様ということもあり、それ以来は料理長了承の上で彼のお食事は私が担当している。
「……雪か、おはよう」
私の顔を見た瞬間、煌様の険しい眉根が、ほんの一刹那だけ和らいだ。
「おはようございます…!」
低く、けれど深い夜の底に響くような心地よいお声。
それだけで私の胸は熱くなり、心拍数は跳ね上がる。
「今日も、君が作ってくれたのか」
「はい!本日は季節の煮物をお作りしてお持ちいたしました。……お口に合うと良いのですが」
息を止めるようにして、彼の手元にお膳を置く。
煌様は私の手元をじっと見つめていた。
その視線が肌に刺さるようで、顔が火照っていくのが自分でも分かった。
彼は無言で箸を手に取り、美しく面取りされた大根を一口、口に運んだ。
あぁ、神様。
どうか彼を笑顔にしてください。
彼の肩に乗っている重たい荷物が、ほんの少しでも軽くなるような、そんな味がしますように。
「…頂く」
咀嚼する喉の動きを、私は祈るような心地で見守った。
「……どうでしょうか…?」
すると、煌様はふっと、誰にも見せないような
春の陽だまりに似た柔らかな微笑を浮かべたのだ。
「…やはり美味いな……雪。君の作るものは、いつも心が落ち着く」
その言葉。
たったそれだけで、足が棒になるほど働いた疲れも
誰かに投げつけられた心ない言葉も、すべてが春の雪のように溶けて消えていく。
「あ、ありがとうございます……!そう言っていただけて、幸せです」
私は精一杯の笑顔を返した。
彼は陸軍のエリート。
私はただの給仕係。
身分不相応な恋だなんて、百も承知だ。
彼が私に向けるのは、きっと馴染みの店員に対する慈しみでしかない。
けれど、この「一口」の幸せを分かち合える瞬間があるから。
彼が私の用意した膳で一息ついてくれる、その事実があるから、私は明日も頑張れる。
煌様の視線が、再び私を捉える。
「……疲れているのか?」
煌様の突然の問いかけに、私は驚きのあまり箸を取り落としそうになった。
「えっ? いえ、そんなことは……」
嘘だった。
確かに今朝は寝坊しそうになり、髪を結うのも慌ただしく駆け込んだ。
けれど煌様に悟られるほど顔色が悪かっただろうか?
「す、すみません。お見苦しくて」
私が頭を下げると
「俺の料理を作ってくれるのは有難いが…もしそれが大変なら無理して作らなくてもいいんだぞ?」
「あっ、いえ、私が作りたくて作っていますから…!…お気遣い頂いて、ありがとうございます」
煌様はわずかに目を細めると、懐から小さな巾着袋を取り出した。
「…なら、これをやろう。桜山の老舗で買った飴玉だ」
「え?」
「糖分は頭の働きを助けるという。君のような働き者には必要だろう」
差し出された白木の箱の中に、紅白の金平糖がちりばめられていた。
キラキラと星屑のように光るそれはまるでお月様からの贈り物のようで、思わず目を奪われる。
「…わっ…すごく綺麗ですね……!」
「気に入ってくれたか」
「で、でも、ただの給仕係の私がいただいてもよろしいんですか?」
煌様はなぜか少しムッとしたように言う。
「〝ただの給仕〟じゃない」
「君は誰よりも一所懸命で、誰より人の心に寄り添う給仕だ。俺はいつも助かっている」
彼の真っ直ぐな言葉が胸を刺す。
「そ、そんな……!私こそ、いつも煌様にご飯を食べて笑顔になってもらえるのが、一日の励みですから…っ!」
咄嗟に出てしまった自分の言葉に、しまったと思ったがもう遅い。
煌様は目を見開き
「……そうか。まあ、君の作る飯が美味いお陰だ。いつもの礼だと思って受け取ってくれ」
そう言って小さく笑った。
金平糖を受け取った私の指先は微かに震えていた。
こんな贅沢品は初めて触れた。
紅と白の粒は暗い夜道でも輝いて見える。
「ありがとう…ございます、大切にいただきますね」
呟いた声が掠れている。
煌様は満足げに頷くと、「ではまた」と低い声を残し席を立った。
振り返らずに去っていく後ろ姿に心臓がうるさく鳴る。
こんなにも遠く感じてしまうのに――
手のひらに残った飴玉の温もりだけが唯一のつながり。
それが、何よりも嬉しかった。
◆◇◆◇
深夜
疲れ果てて自室に戻った私は襖にもたれかかる。
着物の裾がほつれていることに気づいて苦笑した。
金平糖の小箱をそっと開ける。
煌様が「働き者の君に」と言った言葉を噛み締めながら一粒を口に含む。
甘い。
想像以上の優しさが舌の上で溶けてゆく。
窓から見える帝都の灯りが霞んでいく。
私は静かに瞼を閉じた。
どんなに身分が違おうとも
この小さな飴玉ひとつの温もりさえあれば
私はきっと明日も笑っていられるはずだから――。
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