コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜中にふと目が覚めた。
ベッドから足を下ろし、ドアを開ける。
暗いリビングは静まり返っていて、何の音もしない。
ダイニングを抜け、キッチンに入り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に半分まで飲み干した。
顔を上げる。
西側に並ぶ3つのドア。
キッチンから見て手前の大きな部屋が輝馬と凌空の部屋。
南側の一番日当たりのいい部屋が紫音の部屋。
その真ん中。本来であればただの収納スペースであるはずの窓のない部屋にはダイヤル式の南京錠が付いている。
凌空が物心ついた時には、その部屋にはすでにあの女が入れられて、ドアには南京錠がついていた。
ドアが開くたび、黴のような湿った異臭がして、一応水洗トイレも繋いであるようなのだが、それでも駅の外にある公衆便所のような糞尿の匂いも漏れてきた。
風呂に入れてやるのは長男・輝馬の仕事。
視界に入らないようにしている晴子。
逃げるように自室に入る紫音。
『行くよ。歩ける?』
凌空は輝馬に手を引かれていく女を凝視していた。
************
兄は風呂であの女に何かをしている。
そう気づいたのは、7歳の時だった。
当時兄は中学3年生で受験真っ只中。
3学期は自由登校に入り、日中は家にいることが多くなった。
小学1年生の凌空が家に帰ると、いつもはいる晴子はなぜか不在で、彼女がよそ行きの時にしか履いていかないハイヒールもなくなっていた。
リビングのドアを開けても誰もいない。
しかしいつもはぴったりと閉じられている西側の真ん中の扉だけが開いていた。
「お風呂かな?」
覗きに行ったことに深い意味はなかった。
家が無人ではないことを確かめるためだけの行動だった。
しかし洗い場には、女の服と共に、輝馬のジャージも脱ぎ捨てられていた。
「…………?」
風呂に入れているのではなく、一緒に入っているのだという事実に、小学1年生の凌空でも違和感を覚えた。
凌空は目の前の曇りガラスの向こうに見える肌色の影を凝視した。
「……あッ……!」
手前側に見える白く細いのが女の影。
ちゃんと正面から見たことはないが、あの女は妙に白い。
外に出ないからだろうか。
窓も光もない部屋で過ごしているからだろうか
理科の教科書に載っているモヤシのようだ。
しかし、左右の胸の真ん中に、明らかにそれとわかる赤い突起がある。
(おっぱいだ……!)
今まで母親のしかろくに見たことのない乳房。
それは晴子のより随分小さく見えた。
その小振りな膨らみを、もう一つの影から出た手が後ろから掴む。
赤い突起を握りつぶすようにグリグリと揉みしだくと、
「ああッ!」
辛そうな声が浴室に響き渡った。
こんな声してたっけ?
凌空はそんな間抜けな感想を抱きながら、両手で自分の口を押えた。
「――腰、こっちに突き出して」
続いて低い男の声が浴室に反響する。
凌空は思わずニ、三歩後退った。
こんな声してたっけ?
数秒前と全く同じ疑問が頭をよぎる。
女が従ったのか、それとも輝馬が腰を引き寄せたのか、とにかく女はガラス戸に白く小さな両手をついた。
その手はブルブルと震えていて、まるで助けを求めているかのようだった。
「…………」
子供の本能とでも言うべきか、それとも彼女の悲痛な感情が通じたのか、凌空はその手に向かってガラス越しに自らの手を差し出した。
しかし―――。
大きな手が凌空の目の前のガラスにつかれた。
あまりの驚きに凌空は声もなく後ろにひっくり返った。
その手はまるで凌空の介入を拒否するように、はたまた凌空が覗いているのを責めるように的確に、凌空の目の前のガラスを叩いたのだった。
「……アあッ!!」
女の高い声を合図に、曇りガラスが軋み始める。
初めはゆっくり。
少しずつ速く。
どんどん激しく。
折れ戸が壊れるかと思うほどの強さで、女の小さな両手が、そして輝馬の大きな右手が、ガラスを押す。
何をしているのかはわからなかった。
しかし、宿題を教えてくれたり、遊んでくれる年の離れた優しい兄が今、ガラス戸一枚隔てた向こう側で、自分が全く知らない怪物になっていることだけはわかる。
「アア゛!!ああっ、はアッ!ぐっ。んん゛!」
だって、両手をついた女の声が、こんなに痛そうで悲しい。
「………!!」
凌空は足音を立てないようにその場から逃げ出した。
廊下を駆け抜け、玄関ドアを開ける。
そして外の廊下を走りエレベーターに飛び乗り、1階まで降りると、扉をこじ開けるように箱から飛び降り、エントランスを抜けた。
「……あ」
自動ドアを抜けたところで、どんと誰かとぶつかった。
「おっと、ごめんね」
ひっくり返った凌空を誰かが笑いながら引っ張り起こしてくれる。
「…………?」
大学生くらいだろうか。見たことのない顔だ。
男は凌空をのぞき込むと、持っていた書類と凌空の服に刺さったままのネームプレートを見比べた。
「あ、もしかして。市川凌空くん?」
「!!!」
凌空は驚いて走り出した。
マンション前の公園を抜け、いつもが登校班の班長が前を歩いてくれる通学路を一気に走っていった。
なぜか男が追ってきているような気がした。
凌空は何も悪いことをしていないのに。
していないはずなのに。
学校が見えてきた。
授業が終わった上級生の姿もちらほらと見える。
凌空はそこでやっと振り返った。
「…………」
男は追ってきていなかった。
************
「…………」
凌空は飲みかけのミネラルウォーターをシンクの上に置いた。
光景が衝撃的過ぎて、今の今までその男のことを考えたことがなかった。
彼は一体誰だったのだろう。
顔はもう覚えていないが、会社員っぽくはなかった。
だがあの書類と凌空を見比べて、確かに名前を言った。
市役所の調査員?
市川亜希子の生存確認をしに来たのだろうか。
良くは覚えていないが、そんな人間が何度か訪れては、母がいそいそと精神科の通院歴やら主治医の意見書なんかを出していたような気がする。
しかしそのうちにそんな人間も来なくなった。
思えばあの男が最後だったかもしれない。
市役所の調査員にしてはやけに若い男だったが―――。
凌空はその部屋を見つめた。
少し前まで聞こえていた叫び声や物音は、最近すっかり聞こえなくなり、あの部屋にはもともと誰もいなかったのではないかという錯覚までするようになった。
そうだったらどんなにいいだろう。
父が連れてきて、
母が放棄して、
姉が閉じ込めて、
輝馬が凌辱したあの女を、
……壊したのは、凌空だった。