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午後。
連日の大雨が窓を叩き、事務所の空気はどこか湿り気を帯びていた。
いつもは騒がしい廻谷も、この時ばかりは珍しく真面目な顔つきをして、古ぼけた資料を静かにめくっていた。
「……杉沢村、ね。」
低く呟くその声には、聞いたこともない村名なのに、不思議と“凶兆”を思わせる重さがあった。
「ねぇ、すぎさわむらって、なに?」
朱里がきょとんと首を傾げ、隣に座る氷見を見上げる。
氷見は無表情のまま、ぽつりと言った。
「……地図にない村だ。」
「地図に、ない……?」
その言葉に、俺の背筋がうすく冷えた。
氷見はちらりとこちらを見て、淡々と説明を続ける。
「昭和の初め頃……ある青年が突然発狂し、村人を次々に殺したらしい。結局その青年も自害して、村は壊滅状態になったと言われてる。
噂じゃ、死者が多すぎて“行政が村ごと抹消した”とも。」
淡々と語られる“昭和の大量殺人”の話に、思わず眉をしかめる。
しかし氷見は構わず続けた。
「伝承では……村の入口に朽ちた鳥居があって、その根元には“ドクロみたいな石”が埋まってるらしい。そこをくぐると、一本道がずっと奥まで続いてるんだと。」
「ドクロ……」
白亜が小さく震え、神薙の袖をぎゅっと掴んだ。
「おーおー、白亜。泣くんじゃないって」
神薙は白亜の頭を優しく撫で、しゃがんで目線を合わせる。
白亜は大きな瞳を潤ませながらも、小さくこくりと頷いた。
その様子を横目に、氷見はひとつ、深い――まるで肺の底の冷気を吐き出すような――息を落とした。
雨音が、部屋に重く降り積もる。
そして氷見は、事務所の空気をさらに冷やす言葉を静かに続けた。
「つまり――“村”は、地図からは消えても、現象としては消えていない可能性がある。」
その声音は無機質で、どこか諦めめいた響きすら帯びていた。
「物理的な村は取り壊されても……
“怨霊”、
“事件の記憶”、
“死者の念”、
そして“時空の歪み”。
そういったものが、場所に“残り続ける”ケースがある。」
ズシ……と、言葉が床に落ちる。
朱里が息を呑み、玄真は興味深そうに眉を上げる。
蒼斗はただ目を細め、静かに聞いている。
俺は思わず、喉の奥がひりついた。
ただの怪談ではない――
氷見は、怪異の“残滓”として存在している可能性に言及しているのだ。
「帰れなくなる人がいる理由も、それで辻褄が合う。
あの村は“廃墟の形をしているけれど、廃墟ではない”。
……そういう場所なんだろう。」
静寂。
事務所の空気は、湿気とは違う何かで重く沈んだ。
その時だった。
これまで静かに資料をめくり、黙していた廻谷が、重い口を開いた。
「――そして、今回の依頼場所。
……それが“杉沢村”だ。」
言葉は低く、乾いた部屋の空気に吸い込まれていった。
一瞬、時間が止まったようだった。
朱里も、白亜も、蒼斗も、玄真ですら。
そして神薙も氷見も霜月も。
その場にいた全員が、声を失った。
重く噛み締めるような沈黙を破ったのは霜月だった。
「……それってさ。
すごく危険ってことだよね?」
彼女の声は震えてはいなかった。
ただ、率直で、冷静で――俺が一番聞きたかった言葉だった。
廻谷は、ゆっくりと首を縦に動かす。
「あぁ。危険だ。
……何があるのかも、何が居るのかも、皆目検討がつかない。」
静かに、だが強い圧で続ける。
「“事件”の記録は全て闇に葬られてる。
村の位置情報も削除されてる。
過去の調査員も――行方不明だ。」
白亜が小さく息をのむ。
廻谷は机に置いた書類を指で叩く。
「そして厄介なのが……
今回の依頼が、“国”からの極秘依頼ってことだ。」
部屋の空気がひやりと変わる。
「国が動くレベルの怪異。
それが、いまだに“存在している”可能性が高い。」
廻谷は俺たちを見渡し、眉をひそめる。
「……行く覚悟のあるやつだけ、同行しろ。」
その一言は、警告であり、宣告でもあった。
廻谷のその一言が、雷のように事務所に落ちた。
重く沈んだ空気。
誰もが、言葉より先に“心”を決める時間が流れる。
最初に口を開いたのは、誰だっただろうか。
「……行く。」
低く、静かで……それでいて、どこまでも真っすぐな声だった。
まるで濁った空気を一刀両断するみたいに、その一言だけが場に響いた。
たったそれだけの言葉なのに、事務所の空気がひりつくほど緊張した。
その決意の波紋は、すぐに広がっていく。
「俺も行く。」
「……もちろん。」
「行くよ。置いてかれたくないしね。」
「同じ。“守る側”として。」
一人、また一人と仲間たちが口を開き、
迷いなく“前に進む覚悟”を口にしていく。
声が重なるたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
――なのに。
俺だけが、言えない。
どうすればいいんだろう。
みんなの背中がひどく遠く感じた。
この世界に来て、まだ日は浅い。
怪異とまともに向き合えるようになったのも、ほんの最近だ。
「強くなる」
そう誓ったはずなのに……
その誓いを試すかのように、得体の知れない恐怖が、喉元を冷たい手で掴んでいた。
「行く」
そのたった三文字。
呼吸と一緒に吐き出すだけの、短い言葉。
なのに、口が動かない。
もし足を踏み入れたら?
帰ってこられなかったら?
また誰かに守られるだけで、何もできなかったら?
考えれば考えるほど、足の裏が冷えて、指先が細かく震えた。
みんなが先に進んでいく。
自分だけが置いていかれる、そんな焦りが胸の内側をかきむしった。
情けなさと悔しさで、息が詰まりそうだった。
そのとき――
“ふっ”
耳元を風がかすめたような、やわらかい感触がした。
次の瞬間、
――声がした。
誰のでもない。
耳ではなく、胸の奥に直接落ちてくるような、不思議な声。
『颯。』
呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
その声は優しくて、あたたかくて……触れられたら泣いてしまいそうな響きだった。
『あなたは、出来る子でしょ?』
自信の欠片も残ってない場所に、そっと灯りを置かれたような言葉。
『ちゃんと、私が見てるよ。』
見てる。
そう言われただけで、孤独がやわらかく溶けていく。
『大丈夫。あなたは強い。
だから……大丈夫。』
不思議だ。
声の主なんて分からないのに、その言葉はまるで昔からずっと俺の隣にいた人みたいに自然で、
胸がじんわりと熱くなるくらい優しかった。
恐怖で凍っていた心の奥が、ゆっくりほぐれていく。
自分を締めつけていた鎖が一つ、外れるような感覚があった。
涙が滲みそうになって、慌ててまばたきした。
でも――確かに、聞こえたんだ。
「大丈夫」
その言葉が、俺の背中をそっと押していた。
ぎゅっと拳を握る。
震えはある。恐怖も消えてない。
でも、逃げたくない。
みんなと並んで、戦いたい。
俺は、ゆっくり息を吸い込んだ。
胸の奥で、まだ恐怖がしがみついている。
けれど、そのすぐ隣で――
さっきの声が、小さく灯をともしていた。
(大丈夫。あなたは強い。)
あの言葉が、まだ耳の奥に残っている気がした。
そしてその時、ふっと、首筋を一筋の冷たい風が撫でた。
まるで細い指先で触れられたような、滑らかでしなやかな感触。
一瞬だけ、白い鱗のような光が視界の端を横切った気がした。
けれど、振り返った時には何もなかった。
(……気のせいか?)
でも、胸の奥の温かさは消えない。
あれはまるで――
誰かが、俺の肩に寄り添っているみたいだった。
名前は出てこない。
だけど、ずっと昔……
小さな白い影を抱きかかえていた記憶が、一瞬だけ胸の奥を掠めた。
雨の匂い。濡れた土。あの時の――
“あの瞳”。
なんだか懐かしい感覚が、指先に宿る。
(……誰だ?)
思い出せそうで、思い出せない。
でも、大丈夫だと思えた。
だから俺は――
「……俺も、行く。」
自分でも驚くほど、声はぶれなかった。
震えも、迷いも乗り越えて、しっかりと前を向いていた。
廻谷が目を細め、
氷見が小さく頷き、
蒼斗はほんの一瞬だけ、驚いたように俺を見た。
朱里が嬉しそうに笑う。
「颯おにーちゃん、よかった!」
白亜は胸に手を当てて、ほっと息をついた。
玄真はニヤリと笑い、
霜月は安心したように肩の力を抜いた。
みんなの顔を見た瞬間、
心の奥に柔らかく巻き付くような、あの“白い気配”がふっと囁いた気がした。
『――それでいい。』
まるで、ずっとそばにいた守り神のように。
俺には聞こえた。
ほんの一瞬だけ、確かに。
首元に残る“ひんやりとした感触”とともに。
午後の空は重く沈み、事務所の窓を濡らしていた雨粒が、 まるでこれから向かう先の“不吉さ”を知らせるようだった。
廻谷は資料をまとめながら、ポケットから車のキーを取り出す。
「よし。全員、準備はいいか?」
氷見、神薙、霜月、そして俺。
さらに――四神の子供たち 朱里、白亜、蒼斗、玄真 も、小さなリュックを背負い、当然のようについてくる。
「朱里たち、本当に行くのか……?」
俺が言うと、朱里は胸を張った。
「もちろん!朱雀はね、炎で“道案内”できるんだよ!」
白亜は袖を握りながら小さく頷く。
「こわいけど…みんなと一緒なら……行ける。」
蒼斗はそっぽを向いたまま、
「……子供だけ置いていく方が危険だろ。」
玄真はケラケラ笑って、
「颯にーちゃん、僕らがいた方が安全だよ〜?逆に守ってあげよっか?」
それ、ちょっとムカつくけど……本当かもしれない。
廻谷はそんな俺たちをざっと見渡し、肩をすくめた。
「この4人はな、単体でもそこらの怪異より強ぇ。
置いていっても、どうせ勝手に追いかけてくる。」
「……それは否定できないな。」
神薙が苦笑する。
霜月は傘を抱え、ほんの少し心配そうに子供たちを見た。
「全員で動いた方が……確かに安全かもね。」
車に向かう途中、強い雨風が吹いた瞬間――
白い影が、俺の肩にふっと乗ったような感覚がして、胸が温かくなった。
(……見てるんだな。)
さっきの“あの声”を思い出す。
白い蛇の気配 は、そっと俺の背中を押してくれるように感じた。
車に乗り込むと、中はすしずめ状態だった。
9人も乗れば、当然ではあるのだが。
朱里は元気に手を挙げる。
「杉沢村ってどんなとこかなー!幽霊いるかな!?」
「……そういうこと言うな。」
蒼斗が眉をひそめる。
白亜がぎゅっと俺の袖を掴む。
「颯おにーちゃん……手、つないでてもいい……?」
「お、おう……?」
玄真は窓に顔を押しつけて、
「わーい!冒険だー!」
車内は、緊張と子供らしい明るさが混じった、不思議な空気だった。
氷見がエンジンをかける。
「――じゃあ出発する。
“地図にない場所”に行くんだ、全員、気をしっかり持てよ。」
雨が窓を打ち続けるなか、車はゆっくりと動き出した。
都市の景色が遠ざかり、
電灯も少なく、徐々に自然が多い道へと差し掛かる。
子供たちの声も、いつしか小さくなり――
不思議と、全員が同じ方向を見つめていた。
その先にあるのは、
存在してはいけない村。
杉沢村。
俺たちはその異界へ向けて、確実に進んでいた。