小高い丘が動物と人間を分け隔て、不必要に干渉することなく、この地域は平和そのものだった。
しかしある日、空から森の中央に落っこちてきた、淡く紅に光る流星。
それは次々と大蛇を生み出し、森に住まう動物達を殺し、さらには人間を食らった。
年に一度の人食い日。
これを妨げるような真似をしなければ余計な犠牲が出ることはない。
だが、毎年一人ずつ食われても毎年一人が産まれるわけではない。
仮にそうだとしても、いずれは赤子だけの村となってしまう。
勇気ある村の男共が獣を討たんと武器を持ち、大蛇へと挑んだが、それは結局のところ、蛮勇にすぎなかった。
村に残った、熊にも劣らぬ怪力を持つイナと、誰よりも狩人としての才が優れていたナダが村の者達を養うこととなった。
幸いにも大蛇は獲物を選ばず、最初に視界に入った者を標的とした。
若い者と働ける者は家に隠れ、老いた者や先が短い者を人食いの日に村から追い出し、大蛇の生贄として犠牲にする。
やむを得ない、やむを得ないと、不要な者から切り離す行為に、誰もが正気を保つのに精一杯だった。
そして今年の犠牲者として、イナとナダ、そしてヒメの母親である、クシが選ばれた。
クシは少し前から病を患い、長らく歩くことすら叶わない状況。
ヒメがクシのためと危険を侵すこともあり、姉妹を除く村の者達全員が、クシを生贄に選ぶことを躊躇わなかった。
イナもナダも、自らの母が犠牲になることは赦し難いが、クシもまた、自らのせいでヒメが危険を侵すことを望まないだろう。
彼女達がヒメをどう説得するか話し合っている隙に、ヒメは森へと薬草を採りに向かった。
ヒメはそこで、ツミ、そしてマテラと出会ったのだ。
「どうか、どうか母を…そしてこの村を、お助けください…!」
深々と、地面に額を付けて、藁にも縋る思いでヒメは願う。
十にも満たない妹にこんなことをさせ、責任感と哀しみを覚える。
「…どうか、アタイからも頼む」
ヒメと同じよう、ナダも、頭を下げる。
物心つく前に父が他界し、姉二人は家にいないことが多かったヒメにとって、クシは心の拠り所そのものだった。
それを理解していながら、ただ死期を先延ばすことに囚われ、大切な存在を奪おうとした。
「…頼む、私にできることならなんだってする。この命が必要ならば、迷い無く捧げよう。私はどうなっても構わない。だから…妹達が笑ってくらせるよう、力を貸してくれないか」
ナダとヒメを産まれる瞬間から見ていた、人一倍、責任感が強く、妹達を何よりも大事に思っていながら、甘やかし方も知らずに育った、長女であるイナが、ヒメとナダの頭を上げさせ、代わりとばかりに土下座をした。
「………マテラ…」
ツミは助けを求めるような眼差しをマテラに向ける。
「自分で決めろ」
返ってきたのは冷たい返事。
心を失ったツミにとって、それは簡単な問いであるが故に、最も難解な問いであった。
「……」
ツミはそ無言で立ち上がり、家の入口から覗く村人達を押し退ける。
ぽっかりと穴の空いた太陽を背に、ツミとマテラは姿を消した。
「ツミさん……」
「…仕方のないことだ。余所から来た、旅人の彼らにとって、面倒事は忌避するものだろう」
落ち込むヒメを抱き寄せ、イナは誤魔化すように慰める。
日が暮れ、昏い空に月が浮かぶ時間。
ヒメがクシの看病に勤しんでいると、突如として、辺り一帯に、凄まじい咆哮が轟いた。
ヒメが小さな体で庇うよう、クシに覆い被さる。
村にある井戸に水を汲みに行っていたイナがすぐさま帰宅し、安否を確認する。
「大丈夫か!?」
「ジッじじじじ地震!?」
心配するイナと、慌てふためくナダをよそに、ヒメは家を飛び出して森の方角に視線を向けた。
「…っ!」
土煙が立ち上り、真夜中の闇の中ですらはっきりとわかる、紅色の眼光が覗く。
さらに、紅の眼は一対ではなく、八対。
十六の眼が、たった一つの対象を睨んでいた。
なにかを察知したヒメが駆け出すが、イナに捕まってしまう。
「どこへ行くつもりだ!」
「…っ“星の池”…!」
「ダメだ!なにが起きているかはわからんが、あんなものがいる場所になど行かせるものか!」
巨大な暴れ狂うナニカ。
その正体は夜の闇に隠れ定かではないが、人の、小娘一人の手に負えるものではないと、見なくてもわかるほどの殺気を放っている。
“星の池”があるのは森の最奥。
あの巨大なナニカを無視して行けるはずもなければ、おそらくあのナニカがいるのは星の池だ。
そんな危険な場所に、大事な妹を、死んでも行かせるものか。
「……っじゃあ!お姉ちゃんがついてきて!それならいいでしょ!」
「なぜそうなる!私がいてもどうにかなるわけが無い!」
「…今行かなくても、私はお姉ちゃんの隙を突いて行ける。いつ危ないことするかわからないより、今一緒に行って諦めさせたほうがいいと思うよ…!」
「…っ」
なんて頭の回る子だ。
今ヒメを押さえ込んでも、また目を離した隙に行ってしまうかもしれない。
それならば、一緒に行ってしまって、さっさとヒメの目的を達成して帰るほうが賢いのではないのか。
ムキになって言い返してはいけない。
冷静になって考えろ。
イナは一考する。
その後、溜息を一つ漏らして、ヒメに少し待っているように言うと、一度家に戻る。
そして弓と、矢を15本と、松明。
それと、ちょうど一尺ほどの刃物を携えて、ヒメを背中に乗せる。
「ナダ!おっかあの世話は頼むぞ!」
「んぇ!?」
イナは走り出し、門にも向かわず森へ一直線に進む。
村を囲う柵を軽く跳び越え、火のついた松明をヒメに持たせて木々の間を縫うように通り抜ける。
猪を飛び越え、鹿を蹴飛ばし、熊を威圧し追い払いながら、“星の池”へと向かった。
森の中を進めば進むほど、ナニカが暴れ木が薙ぎ倒される音が大きくなる。
その土砂崩れにも似た音の中、狼の唸り声のような声をヒメは聞き取った。
星の池が見えてくる頃、ナニカが暴れた拍子に吹き飛ばされた石の礫がイナとヒメを襲う。
刹那、紅白色の物体──マテラが、その大きな翼で二人を礫の雨から守った。
「マテラさん!」
「何故来たのかは問わんぞ、無駄な問答は生死を分ける」
マテラとの再会に喜ぶ間もなく、暴風と共に霧が広がる。
宵闇と濃霧によって、視界はもはやあって無いようなもの。
音を頼りに、襲い来る瓦礫の群を躱す。
瓦礫の雨が収まる同時に、ナニカに吹き飛ばされた黒い影がヒメ達の近くに転がってきた。
それは、熊をゆうに超える体躯を持つ、黒い毛並みの狼だった。
黒い狼はすぐさま立ち直ると、星の池の方角に向かって唸り声を漏らす。
ヒメ達も同じ方向へと視線を動かすと、天にも届きそうなほどに巨大な影が、こちらを睨んでいた。
八つの長い首と、紅い瞳を持った、星の獣。
霧のせいであまり姿がはっきりとは見えない。
しかし、溢れ出る殺気と憎悪は、ヒメ達の息を詰まらせるほどに、濃く、深かった。
「ツミさん!」
ヒメが、黒い狼に向かって呼び掛けた。
そしてその痛々しい光景に、思わず息を飲む。
美しさすら感じさせる漆黒の毛皮に、どくどくと鮮血が流れていた。
光輝く剣のようなものが背中に深々と突き刺さり、狼は苦しそうに肩で息をしている。
「ヒメ!?」
ヒメはイナの背から降り、狼に駆け寄ると、狼に屈むよう促す。
戸惑いながらも狼はその場に伏せ、ヒメは狼の背に刺さった光の剣を手に持ってグッと踏ん張る。
しかし深く刺さった剣がそう易々と抜けず、幼い女児の腕力ではびくともしなかった。
必死に剣を引き抜こうとヒメは奮闘するが、星の獣は待ってくれるはずもなく、長い尾を狼、そしてヒメに向かって振り下ろした。