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「無事か?」
「何それ?」
スマホの送話口から瑞奈の笑い声が聞こえてきた。自宅の最寄り駅に着いた俺は歩きながら瑞奈に電話をしていた。
「無事だったらいいんだよ」
少しだけ間があいた。気のせいともいえるほどの、ほんの短い間。
「無事だよ。今、家だし。つか、心配し過ぎ」
「ああ、」よかった、との言葉を俺は飲み込む。確かにどうしてここまで今夜の俺は瑞奈を心配するのだろうか。
「ただね……」
ん? 俺は瑞奈の言葉に身構える。スマホを握る手に力が入った。「どうした? 何かあったのか?」
送話口から聞こえてきたのは、あっけらかんとした瑞奈の笑い声だった。「晴翔くん、にゃんか娘のお父さんみたい」
「いや、笑ってないで言えよ。『ただね……』の先を。どうしたんだ?」
「おっとっとしちゃった」
「おっとっと?」意味が分からない。俺は繰り返す。「おっとっと?」
瑞奈が電話の向こうで「ぶっ」と吹きだした。間髪を容れずに、きゃはははと朗笑する声が耳元で弾ける。
「何かね、自分でも笑っちゃうんだけど。また転びそうになってさ。おっとっとと前につんのめっちゃったんだよね。あたし、今日何度目だろう。自分でもホント笑っちゃう」
「躓いたのか? 道路の縁石とか? 坂道?」尋ねながら、瑞奈のアパート近くに坂道はあっただろうかと道順を思い浮かべる。
「普通の平坦な道で。アホみたいだよね、あたし」
「ちょっとサッカー控えた方がいいんじゃないのか? 疲労たまってるよ。マジで足動かなくなるまで走ってるし。オーバーワークだ」
「ええー、別に大丈夫だよ。練習量から言えば高校の頃の方がもっと多かったし。あれかな、お酒に弱くなったのかな? もう二十歳だし。へっへっへ」
「逆だろ。まだ二十歳で、これからもっとおまえはサッカーと酒に強くなるよ」
「何それ、褒めてるの? まあいいけどね。晴翔くんの分まであたしがお酒を飲むから、あたしはどんどんお酒に強くにゃるってことで」
にゃる……「酔ってる?」
「へ? 流石に帰ってすぐだからまだ飲んでにゃいよ。ヒトを酔っぱらいみたいに」
電話の向こうで瑞奈がふくれた気がしたので、俺はとりなすように言う。
「とりあえず、明日の練習は少し手を抜けよ。明後日の試合でコケられても困るからさ」
「むーり、無理無理よん、あたしは絶対に手を抜かない。あ、サッカーだから『足を抜かない』と言った方がいいのかな? ん? 余計に分かんないか。でも、とにかく、あたしは情熱をぶつけるから。練習でもパッション。試合でもパッション。情熱が足りないプレーはしたくないの」
瑞奈らしい言葉だなと思った矢先のことだった。
上空でばりばりと前触れもなく雷の音がした。
「え」瑞奈が固まる気配を電話越しに感じる。
「そっちでも聞こえたか? 雷。今日、降る予報じゃないよな」
「うん」
瑞奈が言うそばから、どおおんと重く響き渡る落雷の音が鳴った。
「ひっ」
瑞奈が息を吸い込んだ。同時にぽつりと俺の鼻先に滴が当たる。あっという間に激しい雨が俺を襲った。
「うわっ、降ってきた。瑞奈、ちょっと電話切る。後でな」
「うん。気をつけてきゃえってね」
瑞奈の声と俺の耳との間に水が流れ込んできたみたいに雨に打たれる。急いでスマホをカバンにしまい、駆けだした。ばしゃばしゃと足もとで水が跳ねる。
闇空が光の筋でひび割れた。直後、どん、とひと際大きい落雷音が轟く。音の余韻が残響音のように空気中に漂いだす。
だが、雷の音は次第に俺の意識の中から消え去っていった。
瑞奈が電話の最後で言った言葉が、脳内でリフレインしていたのだ。『きゃえってね』
……帰ってね、だよな。
あいつ、自分で呂律が回っていないことに気付いてないのか?
雨が勢いを増していく。考えごとをしながら走っているため、俺はいつもよりも走る速度が遅いことに気付けなかった。