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#略奪
秘翠ミツキ
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木曜の夜七時、神田の喫茶ひいらぎの奥の席に、社長は先に座っていた。
本社から歩いて五分。古い店で、椅子が低い。社長は窓を背にして、飴の器を机の端に置いていた。店の物ではない。持ってきたものだ。
「座りなさい」
「失礼します」
注文を聞かれて、コーヒーを頼んだ。社長は、何も頼まなかった。
「奏には」
「言っていません」
「そうか」
社長は飴を一つ、口に入れた。一つ目。
「話は、短い」
「はい」
「三千万やる。十二日を待たずに、別れろ」
音が、消えた気がした。店のコーヒーの機械の音も、隣の席の話し声も。
三千万円。
父の借金が、九百八十万円。契約の報酬が、一千万円。三千万円は、その三倍で、借金を返して、両親に家賃の心配をさせないで、それでもまだ残る。
受ければ、楽になる。十二月十二日に親族の前に立たなくていい。氷室さんの研修も、佐伯さんの疑いも、全部終わる。
私はコーヒーが来るのを待って、一口飲んだ。手は、震えていなかった。震えないことに、自分で少し驚いた。佐伯さんの電話のときは震えた手が、三千万円では震えない。
「お断りします」
社長の目が、少しだけ動いた。
「理由を聞こう」
理由は、一つしかなかった。
「契約した相手を途中で裏切るのは、父の印刷所が一度もしなかったことです」
契約、と言ってしまった。言ってから気づいた。でも、社長は、そこを拾わなかった。拾わないで、飴を転がした。
「……印刷所か」
「はい。父は、御社との取引を二十年、一度も途中で切りませんでした。安い所に乗り換えなかった。だから、私も、途中では切りません」
「金で動かん、と」
「金で動いています。契約の報酬は、父の借金のためです。でも、途中で、別の金に乗り換えることはしません」
「父親は、今は」
「人の印刷所で、働いています。朝六時から」
社長は、飴を転がして、何も言わなかった。会社の帳簿の中で閉じた取引先の、その後を、この人も知らなかったのだと思う。
社長は、長く私を見ていた。それから、二つ目の飴を取った。
「奏は、なぜ君を選んだと思う」
「分かりません」
正直に言った。台帳が読みやすかった、と専務は言った。半年、待っていた、とも。でも、それが答えだとは、私はまだ思えていなかった。
社長は、二つ目の飴を噛んだ。音がした。
「あいつの母親も、総務の人間だった」
顔を上げた。
社長は、もう立ち上がっていた。コートを取って、飴の器を上着のポケットに入れて、伝票を取った。
「十二日は、来なさい」
それだけ言って、社長は店を出ていった。伝票を持ったまま。
私は、低い椅子に座ったまま、冷めていくコーヒーを見ていた。総務の人間。専務のお母様。それ以上のことは、何も言われなかった。
マンションに帰ると、専務は帰っていた。台所の入口に立って、私が玄関から上がってくるのを見た。
「遅いな」
「はい」
専務は、私の顔を見た。それから、言った。
「親父と会ったな」
隠すつもりは、なかった。でも、言う前に言われた。
「……はい」
「顔を見れば分かる。ひいらぎか」
「はい」
専務は、立ち上がった。
「金を積まれたか」
「……」
「いくらだ」
「断りました」
「いくらだ、と聞いている」
言わなかった。三千万円、という数字を、この人に言う理由が見つからなかった。断ったのだから、金額は関係ない。そう思った。
「断りました。それだけです」
「なぜ、断った」
「契約ですから」
専務が、黙る。
それから、台所を出ていった。廊下を歩く音がして、部屋の扉が開いて、閉まる。
私は鞄を置いて、湯を沸かした。沸く前に、扉がまた開いて、専務が戻ってくる。
台所の入口に立って、言った。
「お前は、自分のことでは引くのに」
「……」
「親父の金を断るのは、お前のことだろう」
「契約は、私のことじゃありません」
専務は、何か言おうとして、やめた。やめて、もう一度言おうとして、やめた。
「……そうか」
それだけ言って、椅子に座る。座ったまま、何も言わない。私は茶を二つ淿れて、一つを専務の前に置いた。専務は飲まない。湯気が消えるまで、見ている。
社長が最後に言ったことを、私は言わなかった。あいつの母親も、総務の人間だった。それを、この人に言う言葉を、私は持っていない。
三千万円のことも、言わなかった。そう決めたのは私だ。でも、この人が黙っているあいだ、私は決めたことを何度も確かめなければならなかった。
寝る前に、書斎の鍵を返しに行った。
入るのはお前のほうが多い、と専務は言ったけれど、私はもう入らない。契約書と原本は、あの引き出しにあればいい。鍵は、専務が持っているべきものだ。
書斎の扉を開けて、鍵を机の上に置こうとして、手が止まった。
机の上に、写真が一枚、置いてあった。
前に来たときは、なかった。青いペンの束の横。伏せたメモの上。
古い写真だった。色が少し薄い。総務の制服を着た若い女性が、こちらを見て、笑っている。
腕に、緑の表紙のノートを抱えていた。
私の台帳と、同じ色だった。
コメント
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いや〜〜〜〜😭✨ 第16話、心臓ギュッてなったよ…! 社長が持ってきた飴、ひとつふたつと数えながら進む駆け引き、静かで重い空気がすごく質感ある描き方で、画面の前で息止めて読んじゃったよ。 「三千万円で動いてる」と言いながらも別の金には乗らないって宣言するところ、ゆめかの推しポイントですよ!!🔥💕 最後の台帳と同じ色の表紙のノート…そして総務の制服の女性…でぶわわ〜〜〜となってしまった伏線すぎる…!!