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写真のことは、聞かなかった。
鍵を机の上に置かずに、手帳に戻した。写真には触れずに、書斎を出て、扉を閉めた。
人の机の上にあるものを、見た。見たことは言わない。それが、私の決めたことだった。総務の仕事で、人の机の上の物を見ない日はない。見ても、言わない。
月曜、課長が私の机の前に来た。今日は、お茶を持っていなかった。
「水瀬さん。常務から、ね」
「はい」
「佐伯くんのプロジェクトに、総務からデータ提供担当を一人出せって。水瀬さんを、名指しで」
小森さんが、隣で顔を上げた。
「名指し、ですか」
「数字の作成者が明記されたからね。作成者に聞くのが筋だろう、って」
筋、と常務は言ったらしい。専務が報告会で出した指示が、こういう形で返ってきた。
断れば、総務が協力しないと言われる。課長が困る。断らなければ、佐伯さんと仕事をすることになる。
私は、少し考えて、言った。
「受けます」
「……いいの」
「条件を、一つ付けてください」
「条件」
「やり取りは、全部メールで。課長をCCに入れてください。口頭と電話は、受けません」
課長は、しばらく私を見てから、うなずいた。
「まあ、それなら」
「記録に残るので」
「……そうだね。残るね」
課長は、常務に返事をするために、自分の席に戻った。小森さんが、小さい声で言った。
「ひよりさん。それ、佐伯さんが毎回、課長に見られながらメールを書くってことですよね」
「そう」
小森さんは、口を押さえて席に戻った。
佐伯さんと二人で話さない。それだけを守れば、あとは仕事だ。四月に渡した一枚の続きを、今度は名前のある形でやる。そう思うことにした。
午後、佐伯さんから最初のメールが来た。
『お世話になっております。営業企画部の佐伯です。』
人前の声で、書いてあった。文面は丁寧で、依頼の中身は、会議室Fの予約表の電子化だった。私は、三行で返した。課長をCCに入れて。
小森さんが、画面を覗いて言った。
「佐伯さん、敬語使ってる」
火曜の昼、東雲さんが会社の前に立っていた。白い薄手のコート。
「十分だけ」
今度は、歩きながらだった。神田の昼の通りを、東雲さんは私の半歩前を歩く。
「奏さんのお母様のこと、聞いた?」
足が、遅れた。
「……社長が、一言だけ。総務の方だったと」
「十年前に、亡くなった方」
東雲さんは、振り向かずに続けた。
「私の家と桐谷の家は、昔からの付き合いだから。聞こえてくるの。家の中では、釣り合わないって言われ続けてたらしい。お父様は、それを止めなかった」
「……」
「私は、そういうの、嫌い」
東雲さんが、止まった。振り向いた。
「だから、あなたに言っておく。お父様が、あなたに釣り合わないって言ったなら、それは、あなたのせいじゃない」
返す言葉を探して、見つからなかった。東雲さんは、見つからないのを見て、少し笑った。
「正面から言うって、約束したから」
それだけで、東雲さんは駅のほうへ歩いていった。私は、しばらく通りに立っていた。釣り合わない、と言われ続けた人。緑のノートを抱えて笑っていた人。二つが同じ人だと、まだ決めないことにした。
夜、書斎の前を通って、足が止まった。
扉が、開いていた。中に、専務がいた。
机の前に立って、何かを手に持っている。あの写真だった。
「……見たか」
専務は、振り向かずに言った。
私が木曜の夜にここに来たことを、知っていたのだと思う。鍵を返しに来て、返さずに出たことも。
「はい」
「いつ」
「木曜の夜です。鍵を、返しに来て」
「聞かないのか」
「聞きません」
専務は、写真を伏せた。伏せてから、言った。
「母だ」
分かっていた、とは言えなかった。東雲さんの話で、見当はついていた。見当がついていることと、本人の口から聞くことは、違う。
「総務にいた。二十五年以上前だ。親父と結婚する前からだ」
「……はい」
「台帳の、付け方が同じだった」
専務は、机の上の青いペンの束を見た。
「お前の台帳を初めて見たとき、それが分かった。緑の表紙も、欄の切り方も。前任の人間が、母から引き継いだんだろう。母から、誰かに。誰かから、お前に」
前任の人から引き継いだ台帳だ。その前のことは、聞いたことがなかった。
「……それで」
声が、低くなった。それで、選んだのか。台帳が読みやすかった、は、そういう意味だったのか。
専務は、私を見た。
「だから選んだ、とは言っていない」
「……」
「母の台帳を思い出した。それは本当だ。だが、それだけで人を婚約者にはしない」
専務は、写真を引き出しに入れた。契約書が二通入っている、あの引き出しに。
「鍵は、持っていろ」
「はい」
「返しに来るな。返すなら、四月五日だ」
専務は書斎を出ていった。私は、しばらく机の上の青いペンの束を見ていた。十本以上。会社の支給品。
翌朝、七時四十分。五階の棚の前で、スマホが震えた。
メールだった。佐伯さんから。CCに、課長と、もう一人。
常務の名前があった。
『貴殿が四月に作成したとされる集計の原本(手書き)を提出願います。プロジェクトの資料として保管します。』
コメント
1件
うわあ…今回もめちゃくちゃエモかった😭💕 まず、写真を見ても「聞かない」って決めるひよりさんの覚悟、すごい好き。机の中の一枚を「見たけど言わない」って、それだけで彼女の強さと優しさが伝わってくるのよ…。 東雲さんの「あなたのせいじゃない」、あれ本当に沁みた。正面から言うって約束してたんだねって思ったら泣ける。 ラストの佐伯さんからのメール、常務の名前が入ってるところで一気に空気変わった……!この先どうなるの!?次話早く読みたいよおおお🙏💥