朝の通学路は、まだ少し肌寒くて、吐く息が白く光っていた。
「やべー!遅刻、遅刻!」
俺は斎藤和也、高校2年生。制服のネクタイを慌てて直しながら、階段を駆け上がる。周りの人たちの視線も気にせず、今日もいつも通り爽やかに通学…と言いたいところだけど、正直言って恋愛にはあまり興味はない。学校一のモテ男と言われても、どこか他人事みたいな感覚だ。
そんな時、どこからともなく元気な声が飛び込んできた。
「やっほー♫ 和也おはよー!」
振り返ると、そこには可愛杉ウサギ。髪を軽く揺らしながら、満面の笑顔で俺に手を振っている。学校の人気者で、誰にでも優しいウサギは、今日もまぶしいくらいに輝いていた。
俺は少し照れ笑いを浮かべながら答える。
「おはよ、ウサギ。…ちゃんと宿題してきたか?」
ウサギは少しふくれっ面をしながらも、にこにこと笑った。
「もうー!和也心配性なんだから!ちゃんとやってきたって!」
歩きながら、俺たちは軽く言い合いを続ける。
「ほんとかな…?」
「疑うのやめてよ、和也!」
通学路には桜の花びらがまだ少し残っていて、風に舞うたびに二人の周りにふんわりと舞い落ちる。なんでもない朝の風景だけど、俺とウサギが一緒に歩くと、いつもより少し特別に感じる瞬間だった。
朝の教室は、まだ少しざわつきが残っていた。窓から差し込む光が机の上に柔らかく落ちる中、俺は友達の神矢陸央に声をかけられた。
「遊園地のチケット?」
陸央はにやりと笑いながら、手に持ったチケットを差し出す。
「そう!石化館に行ってこいよ!」
俺はチケットを受け取ると、眉をひそめてつぶやいた。
「行くわけねぇだろ…」
でも、チケットに書かれた文字を見て目が止まった。
高2のカップル限定チケット!
最初に“さ”から始まり“や”で終わる7文字の男子高校生と
最初に“か”から始まり“ぎ”で終わる8文字の女子高生向け!
俺はチケットを見つめながら、声を低くして聞いた。
「おまえ…これ絶対俺たちのことだろ?」
陸央は涼しい顔で肩をすくめる。
「さあ?」
その瞬間、横からウサギの好奇心いっぱいの声が飛んできた。
「和也〜、そのチケットなに?」
俺は少し照れながらも、ため息混じりに答えた。
「ああ…これ?なんか遊園地のアトラクション“石化館”のカップル限定チケットだってさ…」
ウサギは目を輝かせて声を弾ませる。
「え!?なにそれ、面白そう!行きたい!」
俺はその熱意にちょっと押されつつも、つい眉をひそめる。
「…いや、でも俺たちカップルじゃないし」
陸央はニヤリと笑い、チケットを軽く振った。
「決まりだな!今度の休みの日、二人で行ってこい!」
教室の空気が少し変わった気がした。ウサギの目は期待に輝き、俺はなんとなく胸の奥が少しざわつく。
「…ま、まあ…行くしかねぇか…」
その瞬間、心臓が少しだけ早く打った気がしたのは、俺だけじゃないはずだ。
休みの日の駅前は、まだ人もまばらで、少し静かな空気が漂っていた。
ベンチの横で、ウサギが小さくそわそわしながら待っている。
白いニーソックスがまぶしく、ふんわりとした可愛らしいメイド服のような衣装に身を包んでいる。普段の制服姿も可愛いが、今日はちょっと非日常感のある装いで、まるで物語のヒロインみたいだった。
「わりぃ、遅くなった」と、俺が息を切らしながらやってくると、ウサギの顔が一瞬ぱっと明るくなる。
俺の服は青いタキシード風の私服で、第2ボタンを外し、手首には小さなブレスレットをつけていた。少しだけおしゃれを意識してきたつもりだが、ウサギの視線が自分に集中しているのがわかる。
そのせいか、ウサギの頬は自然と赤く染まり、目をそらしながらも、小さく「…いくよ!」と声を上げた。
「どうした?」と、俺は少し心配そうに聞く。
「な…なんでもない!」
でも、ウサギの手が少しぎゅっと握られているのを見て、俺は心の中で微笑んだ。
今日は二人きり、ちょっと特別な日になる予感がしていた。
駅前の風が二人の髪をそっと揺らす。普段と同じ道なのに、今日は何かが違う。胸の奥が少し高鳴る――これが、まさに“ドキドキ”ってやつかもしれない。
遊園地のゲートをくぐると、休日らしいにぎやかな音が耳に飛び込んでくる。
子どもたちの笑い声、ポップコーンの甘い匂い、アトラクションの機械音……
だけど、二人の目的地はその中でもひときわ異様な雰囲気を放つ建物だった。
石化館――黒い石の壁で作られた洋館。
入り口の上には「メドゥーサ迷宮」と書かれた看板がうす暗く光っている。
ウサギは思わず和也の腕を軽く掴んだ。
「ねぇ、和也…くらいね」
館内は外から見るよりもずっと暗く、足元のライトだけが頼りだった。
石造りの床はひんやりしていて、まるで本当に古代神話の世界に迷い込んだようだ。
和也は周囲を見渡しながら言う。
「そうだな…全然下しか見えねぇ。どこが道だよ、これ」
ウサギが小さく声をひそめる。
「ねぇ…メドゥーサって、本物なのかな?」
和也は苦笑しながら肩をすくめた。
「そんなわけねぇだろ。あれは伝説だっての」
けれど、わずかにざわつく空気を感じてか、ウサギは不安そうに和也の服の裾をつまんだ。
その仕草が可愛くて、和也は少しだけ柔らかい声になる。
「……万が一、メドゥーサが出たら」
和也は横目でウサギを見る。
「おれが守ってやるよ」
その一言に、ウサギの頬がほんのり赤く染まる。
暗闇の中だから気づかれないと思ったのに、心臓の高鳴りだけが自分の耳に届いた。
「……うん」
ウサギはほんの少しだけ和也に近づく。
館内の奥からガタンッと何かが動いたような音が響いた。
二人は思わず顔を見合わせる。
何が出てくるのか――
この先に待ち受けるのは恐怖か、それとも…新しい関係の始まりか。
石化館の深い闇の中へ、二人はゆっくりと歩みを進めた――。
石化館の中は、進めば進むほど静寂が深くなる。
足音が反響し、まるで後ろから誰かついてきているような錯覚さえ起こる。
薄暗い通路を抜け、曲がって、また曲がって……
ウサギの歩幅が少しずつ小さくなっていくのが、すぐ後ろにいる俺にもわかった。
わずかに聞こえる彼女の呼吸は、いつもより速い。
その時、俺は気づいた。
ウサギの肩が、細かく震えていることに。
「……怖いのか?」
小声で問いかけると、ウサギは目を伏せて、小さくうなずいた。
「うん……暗いし……なんか音したし……」
その声が妙に弱く聞こえて、俺は思わずため息をついた。
「しゃあないな」
そして、自然と――いや、反射的に、手を伸ばした。
ウサギの手を掴み、そのまま指を絡ませる。
“恋人繋ぎ”になった瞬間、ウサギの肩がビクッと跳ねた。
「えっ……か、和也……?」
暗闇の中でも、彼女の顔が真っ赤になっているのはわかった。
たぶん俺の顔も同じくらい熱くなっている。
けれど、俺はできるだけ平然を装って言った。
「我慢しろ。怖いんだったら……」
少し間を置き、軽く握った手に力をこめる。
「おれが手、繋いであげとく……」
ウサギはしばらく黙ったままだった。
ただ、恋人繋ぎのまま、そっと握り返してくる。
「……うん。ありがとう、和也」
その瞬間、館内の遠くで――
カンッ……と石を叩くような音が響いた。
ウサギがビクッとし、さらに手をきつく握る。
俺も心臓が跳ねたが、握る手だけは絶対に離さなかった。
暗闇の迷路の先に何が待っているのか、まだ誰にもわからない。
だけど確かに言えるのはひとつ――
このドキドキは“恐怖だけじゃない”。
二人の距離は、確実に近づいていた。
館内の空気が一瞬凍りついた。
「カッ…カッ…」と足音のような、でも人間のものではない、冷たい響きが近づいてくる。
「和也……あれ……?」
ウサギの声が小さく震えた。
暗闇の先に、青白い光を放つ影――メドゥーサが現れたのだ。
長く蛇のようにうねる髪、光を反射する冷たい瞳。
その瞬間、ウサギの体が硬直し、石化されそうになる。
「うわっ!」
だが――石化の波は、ウサギに届かなかった。
かわりに、胸のあたりに、温かくて柔らかい何かを感じた。
視線を落とすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
和也がウサギを抱きしめていたのだ。
「和也……?」
恐怖で震えるウサギの声に、和也は微笑みを浮かべたまま答える。
「大丈夫だよ……ウサギ」
そして、彼はぎゅっとウサギを守るように抱きしめたまま、石化の波を受け止める。
足元から徐々に腰まで、石の冷たさが彼の体を包み込む。
ウサギは思わず涙ぐみ、必死に彼の肩を掴む。
「和也……そんな……!」
けれど、和也の顔は安らかで、優しい笑みを浮かべたままだ。
その笑顔が、ウサギの心に強く響いた。
恐怖よりも、安心の方が勝る瞬間だった。
やがて、和也は完全に石化してしまう。
だが、ウサギは彼に包まれている感覚をまだ感じていた。
冷たい石像の和也だが、その温もりは、確かに彼女の心の中に残っている。
「……和也……」
ウサギは震える声で呟き、抱きしめ返すように石化していく彼を見つめた。
館内の薄暗い光の中、二人だけの小さな世界が、静かに、しかし確実に生まれた――。
館内の空気は、いつもより冷たく、重く、張り詰めていた。
薄暗い光の中で、メドゥーサの瞳がウサギを捉えた瞬間、心臓が凍りつくような恐怖が彼女を襲う。
「いや……!」
思わず声を上げるウサギ。だが足先から徐々に冷たい感触が広がり、体が石のように重くなる。
視界の端で、石化した和也がじっと抱きしめてくれているのが見えた。
その腕の温もり、心地よい重さ――彼が自分を守ってくれたあの瞬間の感覚が、今も鮮明に伝わってくる。
「和也……」
恐怖で震える声が、自然と小さくなる。心臓はまだドキドキしているのに、なぜか恐怖だけではない。
彼女の胸の奥には、守られているという安心感が広がり、冷たく重い石化の感覚に逆らう気持ちが少しずつ溶けていった。
「……和也となら、石化しても……いいかも……」
ウサギは、震える唇で小さく呟いた。
そして、彼女の体もまた、石の波に包まれていく。
足先から徐々に腰まで、腰から胸まで――冷たく重く、でもどこか温かく感じる不思議な感触が全身を巡る。
彼女は最後まで石化した和也を抱きしめ、決して離そうとしなかった。
館内の光は二人の周りで淡く揺れ、影が二つ寄り添う彫刻のように重なる。
外から見れば、ただの石像かもしれない。だが、その心には互いへの思いと、あの瞬間の温かさが確かに残っている。
「……大丈夫……怖くない……」
ウサギは自分にそう言い聞かせながらも、内心では胸がいっぱいで涙がこぼれそうになっていた。
和也もまた、石化の中で彼女を守りきったことに満足そうな笑みを浮かべていた――無言のまま、永遠の時間の中で寄り添う二人。
館内には静寂が戻る。
だが、誰も知らない、石化の彫刻となった二人だけの小さな世界では、互いの鼓動と想いがまだ生き続けていた。
恐怖も、緊張も、冷たさも、すべて溶け合い、二人だけの甘く切ない時間がそこで静かに凍りついた――。
石化館の迷路を抜けた後、スタッフの手で二人は特設の展示エリアに移された。
そこは光が柔らかく降り注ぐステージのような空間で、二人の姿を引き立てるためにわずかにスポットライトが当てられている。
石化した和也とウサギは、抱きしめ合ったまま、まるで一つの彫刻のように立っていた。
冷たく固まった体なのに、互いの温もりを感じているかのような自然な姿勢。
寄り添う距離、絡めた手、うつむき加減のウサギに優しく微笑む和也――その構図は、まるで完璧な芸術作品だった。
通りかかるお客たちは、思わず足を止め、息を呑む。
「すごい……まるで本物の恋人みたいだね」
「こんな展示、初めて見た!」
子どもから大人まで、皆がその光景に見入った。
誰もが、二人の小さな世界の美しさと、石化という特殊な状況の中での愛情を感じ取っていた。
30分間という時間はゆっくりと流れ、館内の空気は不思議な静寂と温かさで満たされた。
見ている人々は、ただ二人を見つめながら、息を潜めてその瞬間を味わった。
そして、二人自身もまた、石化の中でお互いの存在を確かめ合い、言葉では表せない想いを共有していた。
冷たい石に閉ざされても、その心の温もりは、誰にも奪えないものとして、二人の間で輝き続けていた。
30分が経つ頃、スタッフの手でそっと解除の操作が行われ、二人はゆっくりと元の姿に戻る――
しかし、その時の美しい構図と、互いを思いやる気持ちは、見ていた人々の記憶に深く刻まれていくのだった。
観覧車のゴンドラに揺られながら、二人はしばらく無言で景色を眺めていた。
下を見下ろすと、遊園地のカラフルな景色が小さくなっていく。
人々の声や笑い声が遠くに響き、風が頬をそっと撫でる。
その静かな時間の中で、二人はさっきまでの石化館での出来事を思い返していた。
ウサギは小さく息をつき、少し照れたように肩をすくめる。
「面白かったね……あの、石化館」
「そうだな……思ったより楽しめたよ」
和也は肩越しにウサギをちらりと見て微笑む。
彼女の表情はほんのり赤く、でもどこか満足そうで、心の奥底から安心しているのがわかる。
ゴンドラはゆっくりと上昇していき、街や遊園地全体が眼下に広がる。
空は少しオレンジがかった夕暮れで、光が建物や遊具に反射して、まるで夢のような世界を作っていた。
その景色を見ながら、二人の心もまた、少しずつ新しい距離感に変わっていく。
しばらく沈黙が続いたあと、ウサギが小さく息を整え、勇気を振り絞るように口を開いた。
「和也……さっきは……守ってくれてありがとう」
小さな声だけれど、その真剣さは和也に伝わる。
彼女はさらに顔を赤らめ、視線をそらしながら言葉を続ける。
「それに……ずっと前から……好きだったの……。だから……わたしと……付き合って!」
一瞬、時間が止まったような感覚。
観覧車の音も、風の音も、まるで消えたかのようだった。
和也は一瞬、目を丸くして困惑した。
心の中では、ずっと彼女のことを大切に思っていたけれど、こうして直接告白されると少しドキドキする。
でも、そのすぐ後、自然とほほ笑みがこぼれた。
「何言ってんだ?ウサギ、当然だろ」
彼の声は柔らかく、でも力強く、ウサギの胸に届く。
「付き合おうぜ」
ウサギの目がぱっと輝き、思わず小さく飛び上がるように喜ぶ。
「えっ、本当に?!」
「当然だろ」
和也も笑い返す。
二人の手はしっかりと握られ、これまでの恐怖も石化の経験も、すべてが二人の距離を縮めるための特別な時間だったことを感じさせる。
観覧車のゴンドラはさらに上昇し、空の色が濃くなっていく。
オレンジから紫、そして夜の深い青へと変わる空を背に、二人は見つめ合い、笑い合った。
「ねぇ……和也、石化館のこと、忘れられないね」
「ああ……でも、こうしてお前と一緒だから悪くなかった」
ウサギは小さく笑い、さらにぎゅっと手を握る。
「これからも……ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろんだ」
その瞬間、観覧車は頂上に達した。
街の灯りや遊園地の光が二人の周りを輝かせ、まるで世界が二人だけの舞台になったかのようだ。
和也は自然にウサギを引き寄せ、二人は静かに、でも確かにキスを交わした。
柔らかく温かい感触が、石化の記憶と交わり、二人だけの特別な思い出として胸に刻まれる。
ゴンドラがゆっくりと降り始めても、二人はまだ手を握り合ったまま。
石化館での恐怖、そしてお互いを守り合った経験は、ただの遊園地の一日ではなく、二人の絆を確かに深める時間となったのだった。
観覧車を降り、遊園地の出口へ向かう帰り道。
夕暮れの柔らかい光が、二人の影を長く伸ばしている。
手をつないだまま歩く距離感が、自然で心地よい。
二人とも、まだ少し照れくさそうに笑っている。
「ウサギ……せっかく付き合ったのに、あのこと、忘れてるよ」
和也が少しふざけたように言う。
「え、あのこと?キスはしたでしょ?」
ウサギは驚いた顔で、でも少しにやりとしながら答える。
頬が赤く染まり、思わず指先で髪をいじる仕草も可愛らしい。
和也は少し真剣な顔になり、でも口角はわずかに上がる。
「そうだけど……LINEと電話番号、両方とも教えて」
指を差しながら、冗談めかしても真剣さが混ざる。
ウサギはふっと笑い、肩をすくめた。
「ふふ……普通にやればいいじゃん」
少し間を置いて、柔らかく頷きながら言う。
「でも……いいよ」
その答えに、和也はほっと笑みを浮かべる。
「よし、それで安心だ」
二人は歩きながら、自然に肩を寄せ合う。
夕暮れの光が二人の背中を照らし、遊園地の一日を締めくくるように温かく包み込む。
石化館でのドキドキ、恐怖、そして守り合った時間――
すべてが二人の距離を確かに縮めていた。
これからも、二人で過ごす時間が、もっと楽しく、もっと特別なものになる予感がした。
ウサギの手を握り、和也は心の中で小さく誓う。
「これからも、ずっと守ってやる――ウサギのことは、絶対に離さない」
そして二人は笑いながら、夕暮れの街を歩き続けた――
恋人として、初めての帰り道を。
遊園地を出て、駅前の街灯がポツポツと灯り始めたころ。
ウサギは歩きながら、そっと和也の肩にもたれかかった。
昼間の緊張やドキドキのせいか、彼女のまぶたは重く、呼吸も穏やかで、
その頭が和也の肩に柔らかく重みを預けてくる。
「……ん……」
ウサギの指先が軽く揺れ、彼女はそのまま眠りに落ちた。
和也はちらりと横を見て、思わず優しく笑う。
「寝てんのか、全く……」
しばらく歩いていると、ウサギが寝言をつぶやいた。
その声は小さくて、でもどこか必死で、心の底からの願いのようだった。
「……和也……一生……私のこと……守って……ね……」
ふっと風が吹き、彼女の髪が揺れる。
和也の胸に、強く、そして温かいものが広がった。
「……そうに決まってるだろ」
彼は優しく答えると、立ち止まり、ウサギをそっと抱き上げた。
軽くて、あたたかくて、頼ってくれる重さが嬉しかった。
背中にウサギの腕がゆるく回り、彼女の寝息が首元に触れる。
「ほんと……お前は無防備すぎるっての」
言葉では文句めいたことを言いながら、その表情は誰よりも優しかった。
駅から自宅までの道のり。
街灯の明かりに照らされ、二人の影が重なりながらゆっくり進んでいく。
ウサギを背負うたびに、観覧車での告白や、石化の瞬間に守った記憶がよみがえる。
「……今日は俺ん家、来いよ」
誰に聞かせるでもなく、和也は小さく呟く。
家に帰すこともできた。
でも、こんなふうに眠るまで安心しきって寄り添ってくれるウサギを、
ひとりで帰らせるなんてできなかった。
「心配すんな。家までちゃんと連れてってやるから――」
和也はウサギを背負ったまま、
静かな夜道をゆっくり歩いていった。
その背中には、
今日始まったばかりの恋と、
大切にしたいと誓った未来がそっと乗せられていた。
家に帰ると、和也はそっと玄関のドアを閉めた。
夜の静けさが部屋に広がり、外の街灯の光がカーテンの隙間から差し込む。
背負ったままのウサギをベッドまで運び、そっと横に寝かせると、彼女はまだ安心したように微かに息をついた。
「……ふぅ……」
寝息は柔らかく、頬にはほんのり赤みが残っている。
その姿を見つめながら、和也は静かにベッドの隣に腰を下ろす。
「……かわいいな……」
小さな声で呟く。心の中で、今日の出来事、石化館で守った時間、観覧車での告白――
すべてが重なり、愛おしさが胸いっぱいに広がる。
ウサギはまだ目を閉じ、眠りの中で時折小さく笑ったり、手を軽く動かしたりしている。
その無防備な様子が、和也にはたまらなく可愛く感じられた。
彼はそっと体を横にし、手は彼女に触れないようにしながらも、近くで寄り添う。
「おやすみ……ウサギ……」
その声は優しく、穏やかで、部屋の静寂に溶け込むようだった。
ベッドの中で、二人の呼吸は少しずつ揃い、外の世界の喧騒は遠くなっていく。
今日一日、恐怖とドキドキ、そして告白とキス――
すべての出来事が二人の距離を確かに縮めたことを、静かな夜の中で感じながら、和也は目を閉じた。
そして、二人はゆっくりと夢の中へと落ちていく――
手を取り合い、抱きしめ合ったままのまるで二人だけの世界で、初めての恋人としての夜を迎えたのだった。
翌朝の通学路。
柔らかい朝日が街を黄金色に染め、歩道に伸びる影がまだ長い。
通学途中の生徒たちの声や笑い声が、朝の清々しさをさらに引き立てる。
神矢陸央は、少し眠そうにリュックを肩にかけながら歩いていた。
今日は特に何も考えずにいつものように学校へ向かっていたそのとき、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「おはよう、陸央」
振り返ると――そこには、なんと手をつなぎ、少し照れくさそうに笑う和也とウサギの姿があった。
陸央の目は一瞬で見開かれ、口も思わず大きく開く。
「おはよー……って、和也ーーーー!?」
信じられない光景に、陸央の声は自然と大きくなる。
周りの生徒たちも目を向け始め、二人のラブラブオーラに気付き、ざわめきが通学路を駆け抜ける。
和也は少し照れながらも、いつもの爽やかな笑みを浮かべて答えた。
「付き合ったんだよ」
その言葉に、ウサギはぱっと顔を輝かせ、元気よく頷く。
「そう!」
陸央は一歩後ずさりし、手を頭に当てて溜息をつく。
「何やってんだ!?お前ら……仲がいいのは知ってたけど……そんな仲じゃなかっただろ!」
思わず突っ込むその声には、驚きと呆れが入り混じっていた。
二人は照れくさそうに目を合わせながらも、手をしっかりと握ったままだ。
その手のぬくもりが、お互いの心を落ち着かせ、昨日の石化館や観覧車での出来事の余韻をさらに温かくしているのを、陸央も遠目に感じ取っていた。
「ねえ、和也!今日のお昼のお弁当、どこで食べる?」
ウサギが小さな声で問いかける。
髪の毛が少し風に揺れ、頬がほんのり赤いのが和也の目にも映る。
和也は肩をすくめながら、でも自然な微笑みを浮かべて答える。
「そうだな、屋上で食べたほうがいいね」
その言葉にウサギの目がぱっと輝き、嬉しそうに頷く。
「そうだね!」
二人は手を握り合ったまま、ゆっくりと歩き続ける。
歩道の花壇にはまだ朝露が光り、遠くの街灯や電柱の影が二人の影を長く伸ばしている。
その影は、手をつないで歩く二人の関係のように、まっすぐで温かい。
陸央は後ろからその様子を見ながら、頭を抱えてため息をつく。
「まったく……お前ら、ついにやりやがったな……」
彼の声には驚きと呆れが混ざっていたが、心の奥ではどこか嬉しそうな気持ちも含まれていた。
通学路のざわめき、朝の空気、歩くたびに小さく揺れる手と手。
二人の世界は、周りの景色とは少しだけ違う特別な時間として、ゆっくり流れていった。
この日から、和也とウサギの新しい日常が始まったのだった――
学校での教室、昼休み、放課後の会話まで、すべてがこれからの二人の甘くて初々しい毎日への第一歩となる。
陸央は二人のラブラブぶりを見ながら、頭を抱えたまま呆れた声で問いかける。
「なんで、そうなった?」
和也は少し苦笑しながら、でも落ち着いた声で説明を始めた。
「昨日、おまえがくれたチケットで石化館に行ったんだ」
彼の目は、あの特別な時間を思い出すように少し遠くを見つめる。
「そこで……あんなことやこんなことがあって……」
言葉を濁す和也に、ウサギは肩をすくめて照れくさそうに笑う。
「うふふ……和也、言わなくてもわかるよね?」
和也は苦笑しながらも、視線をウサギに向け、優しく手を握ったまま続ける。
「そのあと……お前に告白されてさ……」
少し照れくさそうに言いながらも、自然な微笑みを浮かべる。
「それで……付き合うことになった」
和也の言葉に、陸央はさらに驚き、思わず後ろに一歩下がった。
「な、なんだそれ……ちょっと待て、石化館で何があったんだよ!?」
陸央の目は大きく見開かれ、声も少し高くなる。
ウサギは顔を赤らめながら、でもにっこり微笑んで、和也に寄り添う。
「和也が守ってくれたの……すごく頼もしかったんだよ?」
その言葉に、陸央はさらに呆れつつも、どこか羨ましそうな顔をする。
「なるほどな……だから、いきなり付き合うことになったのか……」
陸央は頭をかきながら苦笑する。
「……まったく、和也……やっぱりお前はやることが派手だな」
和也は肩をすくめ、少し照れながらも誇らしげに答える。
「でもさ、ウサギと一緒にいられるなら、何でもいいんだよ」
ウサギは笑顔で頷き、二人の手をしっかり握る。
その姿を見て、陸央はため息混じりに笑った。
「まったく……お前ら、本当に幸せそうだな……」
通学路には再び、朝の光と歩く音が戻る。
でも、和也とウサギの周りだけは、昨日の石化館の出来事や観覧車の告白の余韻で、ほんの少し特別な空気が漂っているように感じられた。
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