ぼーっと、ソファーに座りながらベランダに洗濯物を干す司さんの姿を見る。
少し前に、『手伝いますよ』と声を掛けたが頬を軽くぷにっと突かれ、『唯は怪我人だろう?』と言われ断られてしまった。確かにちょっとは頭を縫ったけれど、健忘症以外はそんなにたいした怪我じゃないのに…… 。
(司さんったら、心配し過ぎっ)
朝食後も食器洗いも、掃除機をかけたりも。『座って休んでて』って言われちゃって正直暇だ。世のお父さん達は休日、家事で忙しい奥さんに構ってもらえず、下手したら邪魔扱いされて肩身の狭い思いをする人が居る事があると聞いた事がある。
——今の私は、まさにそれだ。
せめて読書の趣味でもあれば大人しく時間を潰せるのだろうけど、家にある司さんの本はどれも難しそうな文字ばかりが並んでいて、初心者の私には難易度が高過ぎだった。ノートパソコンで何か出来る事はともちょっと考えたが、下手にいじって壊してしまっては困る。黙々とスマホをいじっているのは失礼な気がするし、『自分のスマホ』って感じがしないから勝手もわからない。
結局、大人しくソファーに座って、司さんの家事姿を見てる以外に今の私にはする事がないのだ。
(…… エプロン姿が案外似合ってるなぁ。家事はやり慣れてる感じがするのは、休みの日に一緒にやっているから?一人暮らしの時に身に付いた技能?ちゃんと洗濯物のシワを伸ばしたりだとかしながら干してるし)
ボーッと見ていると、司さんがベランダから居間の方へと、籠を手に戻って来た。
「お疲れ様です」
「お茶でも飲むか?今日は暖かいし、喉乾いただろう?」
「私が淹れましょうか!」
「大丈夫だよ。こんなに休める事は少ないからな、いっぱいこき使っていい。俺の事は、家政夫か下僕くらいに思って」
「その二つって、ものすごく違う存在だと思うんですけど…… 」
「でも、執事じゃ格好つけ過ぎだろう?」
「…… その方が似合ってる気が」
タキシードにビシッとネクタイを締めて、トレーとか白手袋した手にお茶だとか…… 司さんだったらすごく様になる気がする。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
お世辞何かじゃないんだけどなぁなんて思っていると、司さんは部屋の隅に一旦籠を置き、キッチンに行ってヤカンに火をかけた。
「…… まだ、お昼じゃないんですね」
窓の外に目をやりながら、ぼそっと呟く。
「あぁ。お腹でも空いたのか?」
「いえ、一日ってすごく長いんだなってちょっと思っただけです。こんなにのんびりした経験、子共の頃以来なので」
「そっか、唯は学校やバイトで毎日忙しかったそうだからな」
「どっちも無い日なんて、ありませんでしたしね」
「よく倒れないよなぁ、関心するよ」
「ずっとそんな生活が長いからか、体力だけは人一倍あるみたいで」
「…… そうだな、うん。わかるわかる」
何度も頷き、妙な納得顔をされてしまった。
(私は何か、司さんに、体力のある事を実感させるような事をしたりでもしたんだろうか?)
「ほうじ茶でもいいかい?すまないが、紅茶って気分じゃないんだ」
「ええ、大丈夫ですよ。お茶はわりと何でも好きなんで」
「よかった。まぁ…… これも慣れてないんで、あまり期待しないで」
「淹れてもらえるだけでもう」
目の前のテーブルにほうじ茶の入る湯飲みが、やけに丁寧に置かれた。
「さぁどうぞ、お嬢様」
「お嬢様だなんて…… 。でも、湯飲みじゃあんまり執事っぽくはならないですね」
「残念だな。もっと映画でも見て、執事の作法を盗んでおくべきだったよ。所作で色々誤魔化せたかもしれないからな」
和やかに微笑み合うと、司さんがソファーにドサッと座り、背もたれに身体を預けた。
「大丈夫ですか?」
なんだかとても疲れてるみたいに見える。
「あぁ、家事をやり慣れていないから手順がまだ効率的に出来なくてな。どうしたらいいかとか思ってただけだ、気にしなくていい」
「時間はいっぱいあるんですから、そんなに効率を重視する事もないと思いますけど?」
「でも早く終わらせないと、家事の間、唯を暇にさせてしまうだろ?休んでいろって言ってるのは俺だが、やっぱり気になるからな」
(…… 気にしてくれていたんだ)
「そ、そんな事ないですよ!司さんが家事をやっている姿を見れるのって、なんだか楽しいし」
「そうか?もっとお手本になれる程だったらよかったんだが、すまない」
「謝る事なんてないですよ!私よりも効率いいし、ちゃんと真面目にやっていてすごいなって思いますっ」
私は掃除なんて週に一回やるかどうかだったし、料理は食事付のバイトばっか選んでほとんど作った事なかったから、家事の出来る人が心底羨ましい。
「ありがとう。唯に褒めてもらえるのは嬉しいな。明日はもっと頑張るよ」
「何も、毎日掃除洗濯しなくてもいいんじゃ?」
「そうなのか?一日おきくらいでも、唯が平気ならそうするが。まぁ、洗濯はそうもいかないだろうがな」
(いや、だからそんなにしなくてもいいんじゃ。それとも私が知らんだけで、一般的には毎日とかなもんなの!?)
そう思っても、司さんのやる気を折るのも悪いかと思い、心の中にそっと仕舞う。
「…… た、大変だったら手伝いますから、いつでも言って下さいね。大人しくしていれば治るってものでもないですし」
「イヤ、傷は大人しくしている方がいいだろ。健忘症の方は…… まぁ、そうかもしれないが」
「傷に関してだけなら、頭ですからね。動いても、急に傷が開く心配はあまりないと思いますよ?」
「うーん…… 。唯がそう言うなら、どうしてもって時だけなら」
「司さんよりも下手ですけど、是非」
頷き合って同意を得た。この分だと、明日からはもうちょっと色々やらせてくれそうだ。
「お茶、冷めないうちに飲んで」
テーブルの上にあるお茶を勧めてくれる。
「あ、はい。頂きます!」
ずずず…… 。
二人分のお茶をすする音が、日差しの気持ちいい部屋の中に響く。こんなに暖かいと、洗濯物がよく乾きそうだ。のんびりとした一日って、『暇なだけで退屈そう』って今まではずっと思ってきたけど、好きな人の横で、こうやってお茶を飲んでいるこの時間のなんと幸せな事か。
「空が広いですね、この部屋」
「だろう?好きなんだ、ここから眺める景色が。大きな窓もすごく気に入ってる」
「ずっと、何歳になっても、こうやって一緒に過ごせたら…… きっとすごく幸せだろうなぁ」
二人で外の景色を見ていて、司さんの視線を感じないせいか、ついポロッとそんな言葉が口から出てしまった。
「…… え」と言い、私の方に司さんが顔を向ける。
「あ、や…… 私、何か変な事言いました?…… 」
「いや、嬉しいよ、すごく。唯とだったら俺も、縁側で仲良くお茶を飲むような老夫婦になれる気がするからな」
司さんの笑顔が本当に嬉しそうだ。
「もうそんな先の話しになっちゃうんですか?まだまだ一緒にいっぱい居られるのに」
嬉しそうな顔の司さんを前にすると私まで嬉しくなっちゃって、私も笑顔でそう答えたが、私の言葉で何故か彼の表情が少し曇った。持っていた湯飲みをテーブルに戻し、肘を膝に預けると、両手をあわせて掌を指で擦るような仕草を始める。
(…… どうしたんだろう?私変な事でも言っただろうか)
不思議に思い、でも言葉が出ずに司さんの方を見ていると、彼がゆっくり口を開いた。
「…… 突然、好きな人を失う事だってあるんだって。頭では『人間はいつ死ぬかわからない』って、仕事柄散々知っていても、理解はしてなかったんだなって…… 痛感して」
(…… 私が怪我をしたから?そんなに心配してくれていたんだ)
「——すまない。言葉が上手くまとまっていないな」
「いえ、言いたい事は分かりますよ」
「今みたいな時間が当たり前の様に目の前にあって、好きな人はずっと傍で笑ってる。そんな平穏が、必ず続くものじゃないんだって思うと、二人で人生を重ねてきた老夫婦がすごく羨ましく感じたんだ」
「どちらも欠ける事無く、時を重ねてきたんですものね」
「あぁ…… 羨ましいよ、とても」
「私もです。何歳になっても、お互いに愛情を感じているような、そんな夫婦っていいなって…… 。司さんとだったら、そんな夫婦にもなれるんじゃないかなって」
「嬉しいよ、唯にも同じように思ってもらえるなんて」
「今の私が、言っていい言葉じゃないかな…… とも、思いますけどね」
頬をかき、つい自虐的な言葉が出る。形は夫婦であっても、今の私は、『自分は司さんの妻なんだぞ』って胸を張って言える様な状態じゃないからだ。
「いいや、何があっても唯は俺の奥さんだよ。結婚した記憶がなかろうが、俺を嫌っていようが…… 俺は、唯を手放す気は無い」
「嫌ってるなんて、あるはずがないです!」
身体を少し前に乗り出し、即座に否定した。ちょっとでもそんな風になんて思われたくない。
「嬉しいよ、ありがとう。じゃあ…… ちょっと我が侭になっても、構わないか?」
そう言い、司さんが軽く俯いて息を少し吐き出す。立ち上がり、テーブルに手をついて身体を支えると、ゆっくり私の方へと手を伸ばしてきた。
司さんの手が近づいてくる距離と呼応するように、高まっていく私の心音と乱れる呼吸音。そんな私の変化が司さんにも伝わってしまうんじゃないかって不安になりながらも動けずにいると、そっと彼の暖かな手が私の頬に触れ、じっと私の目を見詰めてきた。
真剣な目に射抜かれ、体が硬直する。
罠にかかった獲物の様に動けず、瞬きすらもしていいのか迷ってしまう。正す事の出来ない呼吸のまま、私は司さんの言葉をじっと待つ。
「添い寝を、させて欲しい」
……添い寝?あれ?思ってた言葉とち——
いやいやいや!期待してた訳じゃないよ!?司さんとの夫婦の営みのお願いなんてされちゃうのかな?とか、全然そんな事考えちゃったりなんてそんな!
………… すみません、してました。
雰囲気的にも、ちょっと真面目な感じだったし…… こんな状態でもやっぱり私達は夫婦なんだし?
「駄目か?すまない、高望みし過ぎだったか?」
不安げな表情で訊かれ、私は慌てて首を横に振った。
「違います!全然平気ですよ。あんな広いベッドだと、一人よりも司さんが傍に居てくれた方が心強いです!」
無駄に饒舌な口調で答えた。
「よかった、一人寝は正直寂しくてな」
司さんは私の頬から手を離し、再びさっきまで座っていた位置に腰を下ろした。
(…… ば、ばれなかったかな?ちょっと変な事期待しちゃってたの)
恥ずかしくて、まともに正面に座る司さんの方を見る事が出来ず、視線を下に落とす。
「…… 本当に嫌じゃないか?無理強いはしたくないから、もしなんだったら、同じ部屋に別の布団を敷いてだとかでもいいんだが」
「いえ!同じベットでの方が…… う、嬉しいです」
途中で声が段々と小さくなってしまう。
「よかった。ちょっとでも一緒に居たいからな。嬉しいよ、ありがとう」
邪な感情なんて、微塵もなさそうな…… いや、きっとマジで無いんだわ!と思えるくらい優しい笑みを、彼が私に向けられて顔を真っ赤にして硬直してしまった。
「——さて。そろそろ家事に戻って、残りを終わらせるとするか」
そう言って、司さんがソファーから立ち上がる。
「全部終わったら、また昨日の続きでもやるか?ちょっと外を散歩してもいいかもな。まぁ、唯の体調次第だが」
「司さんのしたい事で」
「いいや。唯の為に取った休みだ。家事が終わるまでの間に、唯が決めておいてくれ」
そう言い残し、司さんは飲み終わった自分の湯飲みを手に持って、キッチンの方へ歩いて行く。
家事を終えた司さんとは結局、昨日の続きをやろうという事になり、二人でまた色々な簡単レシピを探して過ごした。夜には添い寝付きというご馳走まであり、私は『夫婦生活』をとても満喫し、一日を終える事が出来たのだった。
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