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第4話:その子の未来
小児科病棟の相談室。
消毒薬の香りが、壁の色をより冷たく見せていた。
ソファに座る女性は、背筋を伸ばしていたが、指先だけが震えていた。
中垣ミナ(なかがき・みな)――30代半ば。小柄で清楚な雰囲気。
ノーカラーのシャツにグレイのロングスカート。
髪は黒く、後ろでまとめており、メイクは最小限。
その横に、男の子の写真が置かれていた。
8歳になる息子、透(とおる)。
病名は告げられていないが、**「数年以内に発症する可能性がある神経疾患」**とのことだった。
「……この子が、本当に“そのとき”になったら、何を感じて、どう苦しむのか。
わたしが代わりに、先に……知っておきたいんです」
向かいに座っていた男が、ゆっくりと姿勢を正す。
イタカ。
今日の彼は、薄い青灰のシャツにベージュのロングジャケット。
髪は後ろで結い、表情はやや柔らかいが、眼差しだけは鋭い。
「……それは、他者体験型の“感情代行”に該当します。
今回の依頼内容では、**“未発症の未来を、想定症状に基づきシミュレーション”**する形式を取ります」
「痛みや苦しみ……あの子が“どう感じるのか”まで?」
「可能です。
神経・筋肉への影響、視界の揺れ、言葉が出にくくなる感覚。
さらには、“母親への未練”や“わかってもらえない孤独”まで。
できる限り、“あなたが苦しめるように”体験を整えます」
その言葉に、ミナはハッと息をのんだ。
イタカは一度まばたきをして、書類を広げる。
ファイルは柔らかな緑の色で、内側には数枚の説明資料と契約ページが綴じられていた。
【代行体験契約書:S.P-1215】
依頼者:中垣ミナ
対象:透(息子)の想定未来
体験内容:未発症神経疾患の身体的・感情的影響(3年後想定)
再現形式:感覚ログ+映像シミュレーション+感情プロファイル
制限:依頼者の閲覧範囲選択可/強い精神ストレスが想定される
目的:本人に代わって痛みを受け、理解と備えを形成する
「体験者は私です。
あくまで“透くんの状態を模倣する形”になりますが、実際に視界の変化や神経反応まで調整します」
「……記録は、どんな風に戻ってきますか?」
「“苦しみの記録”として、あなた専用に再構成されます。
直接映像を見る形式、あるいは**“触れるような感覚ログ”**にすることも可能です。
見られないときは、いつでもフィルタできます」
ミナは口を閉じ、深く息を吸った。
そして、ペンを持ち、震える手でサインした。
数日後――
イタカは、病院内の実験ユニットにいた。
静かな空間。
注射と電極によって、神経制御がなされ、筋肉の一部が不規則に震える。
視界には揺れが入り、耳鳴りが断続的に続く。
喉が詰まり、言葉が出ない。
「……これは、喋れないというより、“意識が声から離れてる”な」
イタカは、痛みに顔をしかめながらも、頬がわずかに持ち上がっていた。
その“揺れ”の中に、人が崩れていく過程の美しさを見出していた。
心拍数が乱れ、視界に涙が滲む。
それは恐怖ではなく、“孤独に耐えている小さな子どもの”体内感覚だった。
ミナの元に届いた封筒は、白い布で包まれていた。
その中には、感情プロファイルと、触れると微弱な振動を返す感覚記録プレート。
そして、イタカのコメントが添えられていた。
息子さんの未来に、痛みはあるかもしれません。
でも、その中には――
“あなたを思って耐えようとする気持ち”が、確かにありました。
それは、苦しみを超えて、あなたに向かう感情です。
私が体験した限りでは、それはとても、静かで優しいものでした。
イタカは、建物の外で、ひとり空を見上げていた。
彼の頬にはまだ赤い痕が残っていた。
だがその目には、どこか穏やかな色が浮かんでいる。
「……あれは、いい痛みだった。
“届かないまま愛する”って、こんな感触なんだな」
風が吹く。
彼のコートがはためく中、次の依頼通知が、端末に表示された。