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月咲やまな
#赤ずきん
エドガーとダリウスが帰宅した途端、そこにあったのは“戦い”よりも手強い現実だった。
部屋は薄暗い。
本と巻物が積み上がり、ランプの灯が小さな円を作っている。光の外側は、形が崩れたまま残った。
エドガーの父は椅子に座り、空の茶碗を抱えたまま、ぽつりと言った。
「婆さん、昼飯はまだかのう?」
ミラはポン、と勢いよくスタンプを押す。
「二回目だね! おめでとうございます!」
ダリウスが小声で訂正する。
「三回目だ……」
エドガーの肩が一度だけ沈む。
それでも口元に慈愛が残ったまま、父へ向けて言った。
「父さん、今は夜です」
そのとき。
戸口の鈴がチリン、と鳴った。雪混じりの風が入り込み、ランプの炎が一瞬細くなる。
老人はふらりと立ち上がった。
「散歩に行く。港まで行かにゃいかん」
声に熱が混ざる。言葉だけが先に進み、足が遅れてついてくる。
「父さん、夜だ。また今度、一緒に行きましょう」
エドガーは優しい声でなだめる。だが父は聞かず、ふらつきながら戸口へ向かった。
ダリウスが反射的に前へ出た。
「俺が——」
「触らないでください。動線をふさぐと転ぶ」
エドガーの声が鋭くなる。
同時に、体はもう動いていた。
椅子を寄せ、壁のランプに火を灯す。
灯りが二つになり、部屋の影が薄くなる。
父の足元だけを確保する。迷いのない手つきだった。
そして父の前にしゃがみこみ、視線を合わせて柔らかく笑った。
「外は風が強い。港は……遠い。明日にしよう」
「港で婆さんが待っとるんじゃ」
老人の目は半分、別の時間を見ていた。
ミラが弾む声で割り込む。
「じゃあ、おみやげ持って行かなきゃね!」
父は戸口で立ち止まり、混乱したようにあたりを見回す。
エドガーはそっと手を握った。長く細くなった指を、指先まで包む。
「……父さん。ほら、ここが港だよ。ついた」
戸口に椅子を向け、ゆっくり腰掛けさせる。
窓を少しだけ開け、潮の匂いを部屋へ入れた。
冷気が頬に触れる。だが老人の表情は崩れない。
「ああ……港の風じゃ……」
眉がゆるみ、目尻の力が抜ける。固かった口元が、ゆっくり開いた。
ダリウスの視線が一度だけ床へ落ち、すぐ戻った。
ランプの明かりの中で、三人の視線が短く交わる。
エドガーはミラの方を見ようとして、途中で止めた。口元が一瞬だけ歪み、唇が結ばれる。
声に出さないまま、喉の奥で飲み込んだ形だった。
「——やはり無理だ。遠征は」
ダリウスは、その声の中の沈みと、引っかかりを聞き分けた。
反論しようとして、喉が一拍遅れる。それでも言った。
「さっき、行くと……言ってたじゃないか」
エドガーは避けない。まっすぐダリウスを見据える。言い訳の逃げ道を閉じた視線だった。
「仮です。今のを見たでしょう。私が離れれば……この家は崩れます」
ミラは父と家を見比べた。
建物のことじゃない、と分かる。ここで回っている生活そのものだ。
「家は本で崩れるね」
ミラは観察するようにぽつりと呟き、続けて言った。
「こんなに綺麗に手入れされた魔導書で」
いつもの軽口の形なのに、刺さる場所だけ正確だった。
エドガーは返事をしない。肩が一瞬だけ揺れた。
父の肩に毛布をそっとかける。背を向けたまま、低く言った。
「……悪いが、今日は帰ってくれ」
ダリウスは短くうなずいた。
ミラも静かに父へ小さく手を振る。
二人は冷たい夜の外気へ出た。頬が一気に痛くなり、息が白く散った。
*
ランプの火が揺れ、静けさが部屋の隅に溜まっていた。
マスターはグラスを拭きながら、ちらりと窓の外を見る。雪が時折、窓を叩く。
「徘徊は珍しくない。だが……今夜は風が冷たいな」
ダリウスは唇の内側を噛み、遅れて答えた。
「……ああ」
ミラはスープを一口飲む。
スプーンを置く音が小さい。次の声だけがまっすぐだった。
「今日使った魔導書、しっかり拭いて元に戻してた」
ダリウスは意外そうにミラを見る。
「見てたのか」
「うん。あの人、まだ現役の背中してる」
軽い言い方なのに、言葉が沈む。
二人は数秒、互いを見つめ合う。
ダリウスは視線を外し、俯いた。手のひらが膝の上で硬くなる。
「連れ出す資格が……俺にあるのか」
ミラは迷わず向き直った。
「連れ出すんじゃないよ」
ダリウスが顔を上げる。
「連れ帰るんだよ」
ダリウスの奥歯の噛みしめがほどけた。喉のつかえが一段落ちる。息が、やっと胸まで入った。
マスターは何も言わず、布を動かし続けた。
それでも、うなずいたのは分かった。
*
薄い霧が地面を漂い、朝日が霞の向こうでぼんやり揺れていた。
雪の表面が白く光り、道の輪郭が曖昧になる。
ダリウスは戸を軽く叩く。返事はない。
もう一度、今度は少し強く叩く。
「エドガー。……もう一度だけ話をさせてくれ」
しばらくして、扉がわずかに開いた。
寝不足の顔。頬がこけ、目の下に隈がある。エドガーは息を吐く前に、まず眉を寄せた。
「昨夜の答えは——」
そのとき、家の奥で小さく物の擦れる音がした。
乾いた革が木に触れたような、ごく短い音だった。
三人の視線が、同時に奥へ向く。
薄暗い廊下の奥に、老人が杖をつきながら立っていた。片手には、擦り切れた革表紙の魔導書を抱えている。
それは古い本だった。角は丸く削れ、背表紙の金文字はほとんど消えている。
見間違えるはずがない。エドガーが初めて父に買ってもらった魔導書だった。
昨夜見たどの魔導書よりも、表紙だけは不思議なほど丁寧に拭かれていた。
老人は一歩、また一歩と進む。足取りは危うい。
それでも、その目だけは朝の光をまっすぐ弾いていた。
「ばかもん」
低い声が落ちた。
エドガーの肩が跳ねる。
「行け」
「父さん……?」
老人は息を整え、抱えた魔導書を少し持ち上げた。
「そんな顔で毎晩これを撫でとって、何が“行かん”じゃ」
エドガーの唇が、かすかに開く。
だが、言葉は出ない。
父は椅子の背に手をつき、そこで一度呼吸を止めた。胸の奥から、残った力を絞り出すように。
「本当は行きたいんじゃろ。
わしはな、お前がその本を開く音で分かる。
読んどる時の音と、諦めて閉じる時の音は……違う」
ダリウスが息を呑んだ。
ミラも口を開きかけて、閉じる。
老人はふっと笑った。老いた顔に刻まれた皺が、そのときだけやわらぐ。
「息子に、そんな音を毎晩させとる親がどこにおる」
「……危ない。一人になんて……」
ようやく絞り出したエドガーの声は、掠れていた。
「鍋くらい焦がす。
戸締まりも、たまには忘れる。
だが、それくらいは年寄りの仕事じゃ」
ミラが小さく言った。
「昨日は火、消してなかったよ」
「今日は消す」
老人は不服そうに眉を寄せながらも、胸を軽く拳で叩いた。
エドガーは苦しそうに眉をひそめる。口を開きかけて、閉じる。
「……危ない。一人になんて……」
「養老院でもなんでも良い」
父は外を見た。視線は揺れるのに、言い切りだけは揺れない。
そして立ち上がり、杖をつきながら息子の前へ歩いてくる。
一歩ごとに足が遅れる。それでも止まらない。
「本当は行きたいんじゃろ。
毎晩、魔導書を見るたびに……ため息の音が聞こえとる」
エドガーの胸が一度、沈んで跳ねた。
「それは——」
父はかぶせない。柔らかく笑い、言葉を置く。
「わしは、お前の“ため息”より……“帰ってきた足音”が好きじゃ」
エドガーのまぶたが熱に負け、瞬きが増えた。
彼は静かに背を向ける。呼吸が乱れ、声が出ない時間が一拍挟まる。
「……父さん。行ってくるよ」
外では朝日が昇りはじめ、霧の中に光が差し込んでいた。
エドガーの肩がわずかに上がり、下がる。決めた者の呼吸だった。
老人は椅子へ戻る。腰が落ちた瞬間、目の焦点が揺らぐ。
次の言葉が、また別の時間から滑り落ちてきた。
「婆さん、飯を用意してくれ」
ミラは袖口で冷えた手を包むようにし、掌を重ねた。
「……スタンプはもういらないね」
エドガーは深く息を吐き、仲間の方へ歩み寄る。
表情は固い。だが迷いの形は残っていなかった。
こうして、エドガーは再び旅路へ戻る。
そして三人は、次なる仲間を求めて歩き出した。
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