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ライラの父アイバンは、愛情深い男ではなかった。
堅実という言葉そのものを映し出したかのような人間で、常に仕事第一だった。
ライラに対する態度も素っ気なく、抱きしめられた記憶も、頭を撫でられた記憶も、笑いかけられた記憶さえもない。
そのため、イリスと衝突するのはいつものことだった。
しかし、ライラはそんな父の、仕事に真面目に向かい合う姿勢が好きだった。
実際、アルバンが仕事でミスしたことはほとんどなく、その仕事ぶりは当時からシュヴァーツ侯爵当主だったジョルジュに評価されていた。
愛情を向けられた記憶がなくても、父を愛していたのだ。
ライラが五つになった年のある日、シュヴァーツ侯爵家の倉庫が火事になった。
深夜、使用人が見回りをした時に誤って蝋燭を落としてしまったのだ。
火はあっという間に盛り、倉庫全体を包んだ。
現場は、わらわらと物見高く集まる者、火を消そうと水を運ぶ者に分かれた。
真面目なアルバンは残業し、仕事場に残っていた。
そんな中、外の騒ぎを聞きつけ、倉庫に行くと、もう真っ赤になっていた。
アルバンは呆気にとられていたが、倉庫に仕事の資料が残っているのを思い出し、炎の中に突っ込んで行ってしまった。
アルバンの真面目さが裏目に出たのだ。
唐突なことで誰も止められなかった。
彼はそのまま亡くなってしまった。
戻ってきたのは遺骨が入った瓶のみ。
ライラは十年以上経っても忘れはしない。
忘れることなどできない。
父の訃報を聞いた時のあの衝撃を。
イリスの泣き顔を。
ライラはひどく悲しみに暮れ、元気がなくなってしまった。
毎日が灰色と化した。
年月が経ったのとヴィンセントという友達に出会ったこともあり傷は徐々に癒えたが、ライラはもう悲しみたくないと強く思うのだった。
「……イラ。ライラ 」
ライラはヴィンセントの声で目を覚ました。
部屋はまだ夜明け前なのか薄暗い。
彼はライラを覗き込んでいた。
心配するあまり美しい顔がひどく歪んでいる。
「大丈夫か?」
ヴィンセントはそう言ってライラの頬にそっと手を添えた。
そこでライラは自分が泣いていることに気がついた。
抑えようとすると寧ろあふれ出てきてライラは困惑する。
ヴィンセントは止まらないライラの涙を拭った。
心臓がばくばくとして、胸が悲しみでいっぱいで、ライラは苦しかった。
ライラは美貌をくしゃりと歪め、上半身を起こしてヴィンセントの首に腕を回し、彼を抱きしめた。
「ひぐっ……う……」
泣きじゃくるライラにヴィンセントは戸惑ったが、すぐに彼女をきつく抱きしめ返した。
「大丈夫。大丈夫だ」
ヴィンセントはそう言いながら彼女の頭を撫でる。
ヴィンセントの優しさに、ライラの涙は一層あふれた。
ふたりはしばらくそのまま抱きしめあっていた。
ライラとヴィンセントが結婚して数ヶ月。
ライラはベレニスと街に買い物に来ていた。
「よし、これで全部かな」
目的の物を調達し終わり、ライラは呟く。
「お疲れさまでした。他に行きたいところなどありますか? 」
ベレニスは白い歯を見せてにっこり笑う。
ライラはあたりを見回した。
「そうね……。街に来ることも滅多にないし、ちょっと散策したい」
「かしこまりました」
そうしてライラとベレニスは街をぶらぶらと歩き回った。
仕立て屋、本屋、宝飾店などひとしきり見て回り、そろそろ帰ろうかとなった時だった 。
「お姉さんたち、暇?遊びに行かない?」
見知らぬ男たち数人に囲まれた。
ベレニスは目の色を変え、ライラの前に立ちはだかる。
「紳士方、私の主人に何かご用ですか」
ベレニスは硬い声で毅然として言う。
男たちはへらへらと笑った。
「うん、用あるある。今から君たちと遊びに行かないと」
「お約束した覚えはありませんが」
態度の変わらないベレニスに、男たちの間で苛立ちが走る。
「……何、君。生意気だね?」
そう言って一人の男がベレニスの腕を掴んだ。
ベレニスは内心焦った。
「お放しください」
ベレニスがもう片方の手で男の手を剥がそうとするが、敵うはずもなく男の手は離れない。
ライラは驚きと戸惑いと恐怖で体が動かなかった。
ライラのこめかみを嫌な汗が流れる。
男の手がライラの腕にまで伸びた、その時。
「失礼。私の妻に何をなさっているのですか」
いつの間にそこにいたのか、シュヴァーツ侯爵邸にいるはずのヴィンセントがライラの隣に立ち、ライラの方に伸びた男の腕を掴んでいた。
顔も声も一見穏やかだが、どこか鋭さを孕んでいる。
ライラは夫の姿を認めた途端、ほっとした。
ヴィンセントはライラの肩を抱き、自分の方に引き寄せる。
「いい加減になさらないと、通報しますよ」
ヴィンセントがそう言うと、男たちは舌打ちして去って行った。
ライラが一連の出来事に固まっていると、ベレニスがヴィンセントの方を向いて謝罪した。
「申し訳ありません。私がついていながら。そしてありがとうございました」
ヴィンセントは首を横に振る。
「構わない。無事で良かった」
口ではそう言うが、顔も声も硬いままだ。
ライラは疑問に思ったが、彼にもそういう時はあるだろうからと何も言わないことにした。
ライラもヴィンセントに笑んで礼を言う。
「ありがとう、ヴィンセント」
するとヴィンセントはライラを一瞥し、そっぽを向いた。
「……ああ」
……やはりおかしい。
顔は曇っているし、声にも抑揚がない。
私が何かしてしまっただろうか、とライラはぐるぐる考える。
否、自分が出かける前は普通だった。
では彼はどうしたのだろうか。
ライラはひとり考えを巡らせたが、悩んでも仕方ないので気にしないことにした。
そして三人は帰路についた。