テラーノベル
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第1話 人生1.3倍
午前六時四十七分。
久瀬トウマは、腕の震えで目を覚ました。
目覚ましではない。
左手首につけたマインドバンドが、起床を検知した震えだった。
布団の中で手だけを持ち上げる。
細い帯状のバンドが、淡い緑の表示を浮かべた。
睡眠時間 7時間12分
睡眠状態 正常
身体疲労 低
マインドレベル 100
マインドリンク 未確認
マインドシェア なし
トウマは数秒だけ眺めた。
それから手を落とす。
「いつも通り」
十九歳。
灰色がかった髪は寝起きのせいでところどころ跳ねている。
細身で、肩幅はそれほど広くない。
眠そうに細められた目と、少し気だるそうな表情のせいで、黙っているといつも機嫌が悪そうに見られる。
本人は別に怒っていない。
ただ朝が弱いだけだった。
もう一度、マインドバンドが震える。
接続履歴がありません。
診断を推奨します。
トウマは表示を指で払った。
「知ってる」
診断を勧められるのは今日が初めてではない。
昨日も。
一昨日も。
その前も。
何年も前から同じだった。
トウマがベッドから起き上がるころ、隣の部屋から楽しそうな声が聞こえてきた。
「昨日、三時間しか寝てないのに六時間遊んだ感じする」
兄の声だった。
正確には、三時間しか眠っていないわけではない。
本身体はきちんと七時間眠っていた。
その七時間のうち、意識がマインドネットで六時間ほど遊んでいたらしい。
トウマは洗面所へ向かった。
鏡の前で寝癖を手で押さえる。
後ろから兄が現れた。
久瀬リョウ。
二十三歳。
トウマより少し背が高く、茶色の短い髪をきれいに整えている。
細身だが姿勢がよく、朝から妙に元気だった。
左手首にはトウマと同じ形のマインドバンド。
「トウマ、昨日来なかったな」
「行けないって知ってるだろ」
「あ、そうだった」
「毎回忘れるなよ」
「だって普通に話してると忘れるんだよ」
リョウは歯を磨きながら、自分のバンドを見せた。
睡眠時間 7時間04分
睡眠状態 正常
マインドレベル 83
マインドリンク 正常
マインドシェア 2.1
活動時間 6時間18分
「昨日さ、ネットの中で新しいレースゲームやったんだけど」
「へえ」
「身体使わないのに、あれ疲れるな」
「マインドレベル減ってるじゃん」
「まあ、十七くらいなら昼には戻る」
トウマは水で顔を洗った。
リョウが続ける。
「あと仕事も一時間やった」
「遊びながら仕事するなよ」
「違う。遊んだあと」
「寝てる時間にまで仕事してんの?」
「給料出るし」
それが今の普通だった。
眠る。
身体は休む。
意識は起きる。
一昔前なら、七時間眠れば七時間が消えていた。
今は違う。
その時間を使える。
勉強。
仕事。
友人との交流。
ゲーム。
映画。
運動の疑似体験。
旅行の疑似体験。
そして何もしないことさえできる。
誰かが言い始めた。
人生を実質1.3倍にできる。
その言葉は世界中へ広がった。
今では学校の教科書にも載っているほどだった。
朝食の席でも、その話題は続いた。
母親がテーブルにパンと卵料理を置きながら、自分のバンドを確認している。
「今日ちょっと低いわね」
「いくつ?」
「七十二」
「何してたの?」
「料理講座」
リョウが笑う。
「寝てる間まで料理?」
「昨日は南米料理」
「作れた?」
「マインドネットではね」
トウマは黙ってパンを食べる。
母親がトウマの手首を見る。
「診断また出た?」
「出た」
「消した?」
「消した」
「定期診断くらい行きなさいよ」
「結果同じだし」
「同じでも記録は必要でしょ」
「ノンマインド。以上」
「そういう言い方しないの」
トウマは肩をすくめた。
ノンマインド。
その呼び名を初めて聞いたのは、まだ小学生だったころだ。
眠った。
目覚めた。
周囲の子どもたちは昨日の夜にマインドネットで何をしたか話していた。
ゲームをした。
宿題をした。
友達と遊んだ。
夜の公園を再現した場所に集まった。
トウマには何もなかった。
眠った。
次に目を開けたら朝だった。
最初は故障だと思われた。
マインドバンドを交換した。
接続施設を変えた。
睡眠状態を調べた。
身体にも異常はなかった。
それでも。
睡眠 正常。
リンク なし。
やがて医師から短い言葉を告げられた。
ノンマインド。
当時のトウマは、意味がよく分からなかった。
ただ、その日から周囲の目が少しだけ変わった。
朝食を終えて外へ出る。
街はすでに動き始めていた。
歩道を歩く会社員。
学校へ向かう学生。
店を開ける人。
その中に、人間そっくりのボディユニットも混じっている。
遠目では分からない。
近づけば、耳の後ろに小さな識別表示がある。
本身体がまだ眠っている人間が、ボディユニットを使って朝の仕事を進めている。
交差点の向こうでは、二体のボディユニットが荷物を運んでいた。
その横を、本身体で歩いている人が通り抜ける。
昔なら奇妙な光景だったらしい。
今は誰も気にしない。
トウマだけが少し違った。
ボディユニットを見ると、つい動きを観察してしまう。
右脚の踏み込み。
重心。
肩の動き。
出力の制御。
目で追っているうちに、頭の中で勝手に構造が組み上がる。
ここを変えたら速くなる。
あそこを外せば反応が上がる。
この制御は少し重い。
そんなことばかり考えてしまう。
前を歩いていた学生が振り返った。
トウマと目が合う。
学生は一瞬だけ視線を止めた。
それからトウマのマインドバンドを見る。
トウマのバンドには、通常利用者とは違う小さな表示がある。
NON-MIND。
診断登録された者に表示される識別だった。
学生は少しだけ歩く位置を変えた。
トウマから離れる。
トウマは何も言わなかった。
珍しくもない。
駅に着く。
改札の代わりにマインド認証ゲートが並んでいた。
人々は手首を近づけるだけで通過していく。
トウマも腕を出す。
一瞬だけ読み込みが長くなる。
ピッ。
通過。
後ろから声が聞こえた。
「ノンマインドでも通れるんだ」
「そりゃ通れるだろ」
「でもマインドないんじゃないの?」
「ないわけじゃないらしいよ」
「じゃあ何なの?」
「知らない」
トウマは振り返らない。
マインドがない。
何度聞いたか分からない。
名前のせいだ。
ノンマインド。
意識がない人。
そう聞こえる。
実際にはこうして考えている。
腹も減る。
眠い。
むかつく。
面倒くさい。
全部ある。
電車へ乗る。
車内では、ほとんどの乗客が自分のマインドバンドを確認していた。
ある男性はマインドレベル六十六。
隣の女性は八十九。
学生らしい少女は五十一。
「昨日使いすぎた」
「何してたの?」
「試験勉強」
「睡眠時間に?」
「昼間は遊びたいから」
「逆じゃない?」
楽しそうな会話が聞こえる。
別の場所では、会社員が同僚へ話している。
「昨日の提供量多かったな」
「天候演算の募集があったから」
「あれ参加したんだ」
「ポイントつくし」
「今日雨?」
「昼過ぎかららしい」
マインドシェア。
世界中の人間が眠るたび、少しずつ意識を提供する。
ほんの少し。
本人が気づかない程度。
それが何億、何十億と集まる。
天候を計算する。
巨大な仮想現実を動かす。
研究を進める。
マインドネットそのものを維持する。
社会全体が、眠る人間の意識で動いている。
トウマは自分のバンドを見た。
提供量 0。
いつ見てもゼロ。
少し前、知らない男に言われたことがある。
みんなが出してるのに、お前らだけ出さないんだな。
トウマが拒否しているわけではない。
出せない。
それでも、結果だけ見れば同じだった。
電車が止まる。
トウマは降りた。
今日は学校ではない。
学生生活はもう終わっている。
十九歳になった今、トウマは小さなマインドプログラム関連施設へ向かっていた。
正確には、仕事ではない。
呼び出しだった。
受付で名前を告げる。
「久瀬トウマです」
受付の女性が顔を上げる。
短い茶色の髪。
丸い眼鏡。
胸元には施設職員用のバンド。
名前を聞いた瞬間、女性の手がほんの少し止まった。
端末を見る。
トウマを見る。
もう一度端末を見る。
「ノンマインド登録……」
「はい」
「少々お待ちください」
声が少し固くなる。
トウマは慣れていた。
数分後、別の職員がやってきた。
「こちらへ」
案内された部屋には、ボディユニットが一体置かれていた。
成人男性型。
灰色の外装。
標準型。
椅子に座っていた男が立ち上がる。
三十代ほど。
短い灰色の髪をきっちり整え、背筋をまっすぐ伸ばしている。
細身だが、立ち姿に妙な圧がある。
「久瀬トウマ」
「はい」
「榊原ジンだ。アドミンをしている」
トウマの目が少しだけ動いた。
アドミン。
マインドネットを正式に管理する専門家。
マインドプログラムを扱う人間なら、一度は聞く職業だ。
ジンはテーブルの上に資料を置いた。
「学生時代の記録を見た」
「どのへん?」
「全部だ」
「長かったでしょ」
「かなりな」
ジンは表情を変えなかった。
「立入制限領域への侵入、十二回」
「そんなに?」
「覚えていないのか」
「もっと少ないと思ってた」
「ボディユニットへの無許可変更、二十八件」
「それは多いな」
「他人事のように言うな」
トウマは椅子へ座った。
ジンは標準型ボディユニットを指した。
「今日はこれを見てもらう」
「修理?」
「違う」
「じゃあ?」
「触るな」
「見るだけ?」
「見るだけだ」
トウマは少し残念そうな顔をした。
ジンが続ける。
「何か気づくことはあるか」
トウマはボディユニットを見る。
数秒。
「右脚」
ジンの眉がわずかに動く。
「続けろ」
「歩行制御がずれてる」
「外見だけで?」
「うん」
「動かしていない」
「でも分かる」
「なぜ」
「何となく」
ジンは黙った。
トウマは近づく。
触らない。
約束は守る。
ただ眺める。
「あと、反応制御に変なところある」
「どこだ」
「左腕」
「それから?」
「感覚入力が一個死んでる」
「……」
「たぶん肩」
ジンは手元の資料を見る。
その三つはすべて、事前診断で確認されていた異常だった。
「誰かから聞いたか」
「聞いてない」
「記録を見たか」
「見てない」
「では、なぜ分かる」
「見たら分かる」
トウマにとって、それ以上の説明は難しかった。
文字を見るようなものだった。
ボディユニットを見る。
すると、その動作の流れが頭の中へ入ってくる。
普通の人には外装しか見えていない。
トウマには、その奥にある処理まで薄く透けて見えるような感覚があった。
ジンが言う。
「変更できるか」
トウマは一瞬だけ顔を上げた。
「触っていいの?」
「質問に答えろ」
「できる」
「どこまで」
「全部」
「安全制限も?」
「たぶん」
「たぶん?」
「やれば分かる」
「やるな」
即答だった。
トウマは口を閉じた。
ジンは深く息を吐く。
「君のような人間がいるから、ノンマインドが警戒される」
「俺だけのせい?」
「全部とは言っていない」
「ならいい」
「よくない」
部屋に少しだけ沈黙が落ちた。
外では職員が行き来している。
ボディユニットが荷物を運ぶ音。
マインドバンドの通知音。
いつもの社会の音。
その中で、トウマだけが少し外れている。
ジンは資料を閉じた。
「君のマインドプログラム能力を正式に測定したい」
「前にもやった」
「一般施設での検査だろう」
「そう」
「結果は?」
「測れなかった」
「故障扱いになっている」
「三回とも」
「だから私が調べる」
トウマは少し笑った。
「また壊れたりして」
「壊すな」
「俺が壊してるわけじゃない」
「君の場合、その言葉を信用しにくい」
トウマは肩をすくめた。
検査室へ移動する。
椅子に座り、頭部と腕へ複数のセンサーをつける。
マインドバンドも測定モードへ入る。
ジンが操作を始めた。
「簡単なマインドプログラムを組め」
「何を?」
「このボディユニットの右手を上げる」
「簡単すぎる」
「やれ」
「はいはい」
トウマは目を閉じる。
意識を向ける。
ほんの少し。
ボディユニットの右手が上がった。
表示が動く。
ジンの目が細くなる。
「次。指を順番に動かせ」
動く。
「速度を倍に」
動く。
「停止」
止まる。
「安全制限へは触れるな」
「分かってる」
数値が上がっていく。
測定器の表示が忙しく変わる。
トウマは退屈そうにしていた。
難しいことをしている感覚がない。
呼吸する。
歩く。
それと近い。
やがて。
ピッ。
短い音。
表示が止まる。
ジンが画面を見る。
「……」
「壊れた?」
「黙っていろ」
数秒後。
測定不能。
トウマが笑う。
「ほら」
「笑うところではない」
ジンは別の測定方式へ切り替える。
もう一度。
結果は同じ。
測定不能。
ジンは椅子へ深く座った。
トウマは頭のセンサーを外そうとする。
「まだ終わっていない」
「またやるの?」
「マインドリンクを調べる」
トウマの手が止まる。
「それは無理だよ」
「なぜ」
「ノンマインドだから」
「それは診断名だ」
「そうだけど」
「接続できないことの理由にはならない」
トウマは少しだけジンを見る。
これまで多くの人が言った。
接続できない。
異常。
欠けている。
でも。
理由にはならない。
そう言った人は初めてだった。
ジンが装置を調整する。
「眠る必要はない。接続反応だけを見る」
「起きたままで?」
「通常なら極めて弱い反応が出る」
「俺は?」
「それを確認する」
トウマは目を閉じた。
装置が動く。
遠くで低い音がする。
意識の奥に、何かが触れる。
普段なら感じないはずのもの。
トウマは眉を寄せた。
何だ。
暗い場所ではない。
明るい場所でもない。
場所という感じすらしない。
ただ。
向こうに何かがある。
遠く。
深く。
巨大なもの。
枝分かれしている。
何本も。
何百本も。
もっと。
そのすべてに意識が流れている。
人。
人。
人。
世界中から流れ込む、無数のマインド。
一瞬だけ。
トウマは、その流れの外側に立っていた。
接続していない。
でも見えている。
そのさらに奥。
太い何かが動いた。
鼓動のように。
ゆっくり。
一度。
トウマは目を開けた。
「止めて」
ジンがすぐ装置を切る。
「何があった」
「分からない」
「何を見た」
「見たっていうか……」
トウマは自分の手を見る。
震えてはいない。
マインドバンドが表示を更新する。
睡眠 なし
マインドリンク 未確認
いつもの表示。
何も変わっていない。
なのに。
トウマは確かに何かを感じた。
「ネット」
「マインドネットか」
「たぶん」
「接続したのか」
「してない」
「なら、なぜ分かる」
「知らない」
ジンは黙り込む。
トウマのバンドには、相変わらず表示されている。
マインドリンク。
未確認。
それなのに。
トウマの意識には、まだあの感覚が残っていた。
巨大な流れ。
枝。
根。
人間の身体に似た何か。
そして、そのすべてが生きているような感覚。
施設を出るころには昼を過ぎていた。
街には人があふれている。
本身体。
ボディユニット。
眠っている人。
起きている人。
同じ世界を、二つの身体と一つの意識で生きている。
駅前の巨大表示には広告が流れていた。
眠っている時間を、あなたの時間へ。
人生を実質1.3倍に。
笑顔の人々がマインドネットで遊んでいる。
仕事をしている。
勉強している。
遠くの友人と話している。
トウマは少しだけ立ち止まった。
自分には、その1.3倍がない。
今まではそう思っていた。
眠れば終わる。
次は朝。
みんなが持つもう一つの生活を、自分だけ持っていない。
でも。
さっき見たものは何だったのか。
マインドネットへ行けない。
そう診断されている。
本当に?
トウマは自分のバンドを見る。
睡眠 正常。
マインドリンク 未確認。
マインドシェア なし。
何年も変わらなかった表示。
その下に、小さな通知が一つ増えていた。
不明なマインド反応を検出しました。
トウマはしばらく眺めた。
そして。
「何これ」
指で通知を開く。
表示が一瞬だけ乱れる。
見たことのない文字列。
通常の利用者には表示されない領域。
トウマの目が少しだけ細くなる。
さっきまでの眠そうな顔が消えた。
学生時代。
見知らぬ領域を見つけたとき。
立入禁止の処理を見つけたとき。
ボディユニットの制限の向こう側を見つけたとき。
いつも同じ顔をしていた。
好奇心。
「入れるのかな」
バンドが短く震えた。
警告。
許可されていない処理です。
トウマの口元が少し上がる。
「そう言われると、余計に気になるんだよな」
人生1.3倍。
そんな社会の中で。
みんなより少ないと思われていたトウマの意識だけが。
誰も知らない場所へ、手を伸ばし始めていた。
コメント
1件
おお、これSFの世界観がめちゃくちゃ丁寧に練られてて刺さったわ…!「人生1.3倍」ってキャッチフレーズで毎日が回ってる社会なのに、トウマだけはノンマインドで取り残されてる感じがもう冒頭から切ない。でも、本人がそんなに気にしてなさそうなとことか、むしろボディユニットの構造を直感で読める特異な能力があるっていうギャップがたまらん。ラストの「不明なマインド反応」と警告無視の好奇心、これ読んだら続き気になって仕方ないやつや🔥