テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
草原草原(くさはらそうげん)

1,567
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
藤乃が来たのは、玲司のいない昼だった。
「有明の奥様が」
柘植が縁側に来て、時計を見てから言った。
「お通しするか、お帰りいただくか。奥様が、お決めになることでございます」
千歳は針を止めた。
決める。藤乃を、通すかどうかを、千歳が決める。十年、藤乃が決めて、千歳が動いた。その逆を、柘植は、当たり前の顔で言っている。
「……お通しして」
言ってから、膝の上の手を見た。右手の上に、左手。癖は、まだ抜けない。
藤乃は、縁側に座った。
襟は正していた。髪も結っている。着物は、見たことのないものだった。見たことのある着物は、二枚、売られた。千歳は、それを知っている。知っていることを、顔に出さなかった。
「梢の縁談が、進んでいます」
藤乃は、挨拶をしなかった。いきなり、それを言った。
「桂木子爵家の、ご媲男と。園遊会で、お会いしたでしょう。あちらの母御が、梢を気に入ってくださって」
千歳は、園遊会の、桂木の母御の眉を思い出した。寄った眉。梢を見て、寄った。
気に入った、とは、見えなかった。
けれど、それを言う立場ではない。千歳は黙っていた。
「結納金の一回目は、払いました。二回目も、何とかします。あの方は、耳をそろえて、と仰ったけれど、一度に五千円は無理。それは、あの方もお分かりでしょう」
藤乃は扇を開いた。
「それはいいの。今日は、別の話」
扇の上の目が、千歳を見た。見て、千歳の帯で止まった。
赤い珊瑚。母の帯留めが、そこにある。千歳は隠さなかった。隠すものだと、思わなくなっていた。
「……それ」
藤乃の声が、少しだけ、ずれた。
「箪笥の奥の。質に入れたはずの」
「はい」
「誰が」
千歳は答えなかった。答えなくても、藤乃には分かったようだった。扇が、一度、強く閉じた。
「商家の趣味を、御堂の奥様が、お締めになるの」
千歳は帯留めに、右手で触れた。冷たい。母の、冷たさだ。
「母のものです」
それだけ言った。藤乃は、扇を開き直した。
「お前が、言いなさい」
「……何を」
「お前が、勝手に身代わりになった、と。有明の家は、お前に騙されたのだと。お前が、梢の名を盗んで、御堂に乗り込んだのだと。お前の口から、世間に」
千歳は、聞いた。
「そうすれば、有明は騙された側になる。梢の縁談に、傷はつかない。桂木の母御も、納得なさる。身代わりの家の娘、という噂が、消える」
扇が、閉じた。
「お前は、もう御堂の奥に座っているのでしょう。何を言われても、痛くも痒くもないはずよ。妹のために、それくらい」
妹のために。
千歳の中で、何かが、動いた。動いた先に、梢がいた。借り物の振袖の梢。普段着で女学校へ歩いていく梢。一人で。
梢のためなら。
その言葉が、口の手前まで来た。十年、そうしてきた。梢のためなら、冷や飯でよかった。梢のためなら、土間でよかった。梢のためなら、名前も、差し出した。
もう一言で、出る。
「梢の――」
言いかけて、止まった。
その嘘は、何を言うことになるのか。千歳が、勝手に身代わりになった。御堂は、騙された。
御堂は、騙された。
あの人は、門の前で、一目で見抜いている。最初から、長女を、と書いている。使用人たちの前で、この手を持ち上げた。
その全部を、嘘にする。姉妹の見分けもつかずに嫁を取った、愚かな当主にする。千歳の口で。
「……できません」
藤乃の扇が、止まった。
「何ですって」
「できません」
声は、小さかった。けれど、二度、言った。
「奥様」
藤乃の声が、低くなった。
「お前は、いつまで、人の顔色を見て」
「奥様の、顔色ではなく」
千歳は言った。言って、その先を、言わなかった。言えば、あの人の名が出る。あの人の名を、藤乃の前で、使いたくなかった。
藤乃の顔を、千歳は見ていた。見上げてはいない。縁側の、同じ高さだ。
藤乃は、しばらく千歳を見ていた。
見て、立ち上がった。
「いいわ」
扇を帯に差した。
「ならば、こちらにも、言うことがあります」
千歳は顔を上げた。
「あの離れにいる娘。あれが、火事で顔を焼かれた娘だということ。桂木家にも、世間にも、言いふらしてやる」
顔を、焼かれた。
「恭介様から、聞いたのよ。御堂は、顔を焼かれた娘を、離れに隠している。狂女だと噂されて、それでも隠している。そんな家の当主に、まともな親族がついていくものですか」
藤乃は縁側から下りた。
「お前が庇う男は、そういう男よ」
千歳は、動けなかった。
藤乃の下駄の音が、玄関のほうへ遠ざかった。柘植が門を閉める音がした。
千歳は、自分の右手を見た。
赤く、引きつれた痕。手だ。手だから、袖に隠せた。十年、隠せた。
顔を、焼かれた娘。
隠す場所が、どこにもない。だから、離れにいる。だから、見られると、灯りを消す。
縁側の向こうで、文が立っていた。藤乃を通したあと、ずっとそこにいたらしい。千歳と目が合うと、文は何も言わず、台所へ走っていった。お初を呼びに行ったのだと、分かった。
千歳は、立った。
玲司に、言わなければならない。藤乃が来たこと。言えと言われたこと。言わなかったこと。そして、言いふらす、と言ったこと。
言わなければならないことを、自分から言いに行くのは、初めてだった。
コメント
1件
読了しました。第21話。 やっと、千歳が「できません」と言ったんだな、というのが、まず一番に来ましたね。十年かけて身に染みついた「梢のためなら」が、口の手前で止まる——ここが本当に重かったです。止めたのは、あの人(御堂の当主)の名を、藤乃に使いたくなかったから。千歳が初めて、自分の意志で庇う側に回った瞬間だと思います。 それと、柘植が「お決めになることでございます」と千歳に判断を委ねた時点で、もう家の中の空気は変わっているんだな、と。台詞は少ないのに、立ち位置が静かに動いていく感じがすごく巧いなと思いました。 ラストで、千歳が「自分から言いに行くのは初めてだった」とあるのも、この話の締めとしてじんと来ますね。続きがどうなるか、楽しみです。