テラーノベル
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商店街の片隅に、小さな純喫茶があります。看板は少し傾き、扉のベルは控えめに鳴る程度。
その店の名前は、純喫茶 燈
店主は、まだ大学生。
父親代わりだった祖父が遺したこの店を、ひとりで守っています。
豆を挽く音と湯気の匂いに包まれながら、今日も静かに営業中。
そして今日もまた、
少しだけ不思議で、少しだけ変わったお客様が──
この店を訪れるのです。
ドアのベルが、からん、と軽やかに鳴った。
少し古びた木製の扉は、年季が入っていて、開け閉めのたびにかすかに軋む音を立てる。
「いらっしゃいませ」
窓の外は、小雨模様。
濡れた傘を畳みながら、ひとりのサラリーマンが静かに店へ入ってきた。
「萌香ちゃん、ブレンド。頼むね」
「かしこまりました!」
店主の少女──佐藤萌香は、明るい笑顔で軽く会釈し、手際よくカウンター奥のサイフォンへと向かう。
その横で、グラスを拭いている男がいる。
五十嵐浩二。
この店のアルバイトにして、佐藤と同じ大学に通う学生だ。
「……あいつ、また来たのかよ」
ボソッと吐き捨てるような声に、萌香は軽くため息をつく。
「もう、そういうこと言っちゃダメでしょう? お客様なんだから」
──そう。お客様なのだ。
だが五十嵐は、どうにもあの男が気に食わない。
理由は単純。
あのサラリーマンが、佐藤に向ける視線がどう見ても「純粋」には見えないからだ。
「はい、どうぞ」
萌香は静かにカップを差し出す。
「今日は雨なので、スッキリ爽やかなブレンドにしました」
「ありがとう。いつも気が利くね」
サラリーマンは笑いながら、わざとらしく言う。
──そのとき。
彼の指先が、カップを受け取るときに萌香の指に触れた。
一瞬のことだったが、わざとかどうか、微妙な“間”があった。
萌香は笑顔を崩さず、そっと手を引く。
目線は落としたまま、カウンターの向こうに視線を逃がす。
男の左手には、銀色の指輪が光っていた。
それははっきりと、既婚者であることを物語っていた。
カウンター越しに、その様子を黙って見ていた五十嵐が、グラスを拭く手を止めた。
「……お前、嫌なもんはハッキリ嫌って言えよ」
苛立ちを隠す気もない声音だった。
同い年だからこその、気取らない物言い。けどそれは、怒ってるというより──心配しているから。
萌香は、ふっと小さく息をついた。
「……うん。あまり近づかないようにはしてるんだけどね」
その返事は、どこか曖昧だった。
慣れてるのか、諦めてるのか。あるいは、見ないふりをしてるだけなのか。
五十嵐は、黙ってグラスに視線を戻した。
けれど内心は、濁った何かが渦巻いている。
「……萌香ちゃん。今日のブレンド、ちょっと濃いね」
男がカップを置きながら言う。
その声音はあくまで穏やかで、どこか含みのある微笑みさえ浮かべていた。
「……あれ? 濃かったですか?」
萌香は一瞬だけ瞬きをして、すぐに笑顔を戻す。
「すみません、すぐ作り替えますね」
そう言ってカップを手に取る彼女の背中を、男の視線が追っている。
その視線を、五十嵐は黙って睨みつけていた。
カウンター越しの距離。
何も言わずにいられるギリギリの沈黙が、店内に広がっていく。
五十嵐の掌は、知らず知らずのうちにグラスを握る力を強めていた。
萌香の「気にしてないふり」が、どこまでも優しすぎて、どこまでも無防備に見えた。
「君は可愛いから許すけど、普段ならすぐ作り替えてって言っちゃうからね」
男はにこにこと笑いながら、カップを揺らした。
「君はその点、機転が効いてて素晴らしいよ」
萌香は笑顔のまま、「ありがとうございます」と小さく会釈する。
──その声に、ほんのわずかだけ温度がなかった。
五十嵐は、グラスを拭く手を止める。
(……めんどくせぇ)
心の中で毒づく。
言い返すほどの立場でもないが、聞き流せるほど大人でもない。
コーヒーの香りの奥に、苦味とは別の何かが滲んでいる気がした。
萌香が、作り替えたブレンドを手に、再び男のもとへと歩いていく。
笑顔は崩さず、けれどどこか慎重な足取りだった。
「お待たせしました。こちら、作り直したブレンドです」
男はカップを受け取りながら、にやけた笑みを浮かべる。
「……ねぇ、良かったらさ。今度、デートしない?」
──その瞬間。
キッチンの奥で、ガシャン! と音が響いた。
萌香が振り返ると、カウンターの向こうで五十嵐が硬直していた。
彼の手元には、粉々に砕けたグラスの破片。
「……あ、やべ」
五十嵐が口をつぐむ。
「ちょっと、大丈夫!?」
萌香が駆け寄ろうとする。
「……強く握りすぎて割っちまった。……わりぃ」
彼の声は低く、どこか押し殺したようだった。
グラスを割ったのは偶然かもしれない。けど、タイミングだけは偶然じゃなかった。
「手見せて!」
萌香がカウンターから身を乗り出す。
「だ、大丈夫だっつの!!」
五十嵐は咄嗟に隠すように手を引っ込めた。
粉々になったグラスの破片が、足元に散らばっている。
幸い、手のひらには切り傷一つない。
でも、彼の拳はわずかに震えていた。
カップを持ったまま、男がその様子をじっと見ていた。
不服そうな顔で、じろりと五十嵐を睨みつける。
──その視線に、五十嵐も気づいた。
黙って目を合わせる。
一歩も引かない目。どこか怒りすら宿した、真っすぐな視線。
男の表情が、わずかに強張った。
そして──何も言えなくなった。
カップを見つめたまま、男はただ黙り込んだ。
「……ごめん、用事できたから、お会計で」
男はそう言って、ほとんどカップに触れぬまま、そそくさと店を出ていった。
椅子の背には、湿った空気と気まずさだけが残された。
店内が静けさを取り戻す。
「……何か、すごく忙しそうだったね」
萌香がカウンターの中からぽつりと言う。
「珈琲も、ほとんど手つかずだったし」
五十嵐はため息交じりにグラスを拾い上げる。
「ほっとけよ。ああいうのは……迷惑客、確定だ」
その口調はいつも通りぶっきらぼうで、けどどこか安堵がにじんでいた。
「……また来てくれるかな」
萌香がぽつりと呟く。
「いやいやいや!! 来なくていいだろ、どう考えても!!」
五十嵐が思わず声を張り上げた。
彼はポリポリと後ろ頭を掻きながら、眉をひそめる。
「お前……そういうとこが、経営者に向いてねぇんだよ……」
萌香は、困ったような、それでいてどこか楽しげな笑顔を浮かべていた。
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