テラーノベル
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雨が上がると、薄曇りの隙間から陽の光が顔をのぞかせた。店先の観葉植物たちも、嬉しそうに葉を太陽へと向けている。
「すっかり晴れたね」
萌香が窓の外を見ながら呟く。
「ああ。こっからちょっと忙しくなるかもな」
五十嵐がグラスを拭きながら応じた、その時──
ドアが、からん、と鳴る。
猫を抱えた婦人が、そっと顔をのぞかせた。
「すみません、お席空いてらっしゃるかしら?」
「はい!どうぞ。窓際のお席でも」
萌香の声に、ふわりと温かい空気が流れ込んだ。
──今日もまた、静かに火が登っていく。
「猫ちゃん……大丈夫かしら」
婦人が腕の中の猫をそっと撫でながら尋ねる。
「はい、もちろんです」
萌香が笑顔で答える。
その横で、五十嵐は一歩、すっと後ずさる。
嫌いなわけではない。むしろ、どちらかと言えば好きなほうだ。
……が、アレルギーには勝てない。
「悪い、俺……ちょっと距離取るわ」
ぼそりと呟きながら、そっとカウンターの奥に消えていく。
萌香はクスッと笑った。
「じゃあ、コーヒーは私が運びますね」
「いや、むしろ頼む……マジで目が痒くなるから……」
「ブレンドを頂こうかしら。猫ちゃん用にミルクも一つ」
「かしこまりました」
萌香は笑顔でオーダーを受け、カウンターに戻る。
五十嵐は猫から半歩距離を取りつつ、ぼそっと呟いた。
「……うち、いつからペット可になったんだよ」
「え? 別に、元々ダメじゃなかったでしょ?」
「いや、黙認と公認は違うだろ」
「じゃあ“黙認”ってことで」
「…おい、経営者の発言かそれ」
「しかも、こんなに可愛いし」
萌香が屈んで猫に目線を合わせる。
「ほら、おいでー」
茶色と白の水玉模様のような、やわらかな毛並みの三毛猫。
まるで呼ばれたのが分かるように、猫はとことこ歩み寄り、萌香の足元で小さく身体を丸めた。
そっと撫でると、喉の奥からゴロゴロと甘えた音が響く。
「……ほら、いい子でしょ?」
萌香の手の動きも、猫の鳴き声も、あまりに穏やかでやさしくて──
それを見ながら五十嵐は、口に出せない言葉をぐっと喉の奥に飲み込んだ。
(……あー……でも、痒い)
婦人が、白い器にそっと暖かいミルクを注ぎ、テーブルの下に差し出す。
「ほら、メルちゃん。ミルクあげるわよー」
ところが、メルちゃんは器に目もくれず、ぷいと顔を背けた。
「あら? 飲まないの? 珍しいわね……」
婦人が少し首を傾げる。
それを見ていた萌香が、カウンター越しに言った。
「……もしかして、成分調整牛乳だからだめなのかしら?」
五十嵐が思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、
「お前、その猫より舌こえてないか」と、心の中でつぶやいた。
五十嵐がふと後ろから口を挟む。
「一応、うちで使ってる牛乳は、酪農家からウチだけにおろしてもらってる特注だ。味は保証する。」
メルちゃんを避けるように、やや距離をとった立ち位置のまま。
婦人は感心したように目を丸くする。
「まぁ、こだわりが素晴らしいわね」
「……まあ、俺が選んだわけじゃないけどな」
そう言って、そっぽを向く五十嵐。
その背中を見て、萌香がくすりと笑う。
「でも、ちょっと誇らしげだったよ」
五十嵐は答えず、グラスをひとつ、静かに拭き上げた。
カラン、とドアの鈴が鳴った。
小さな音とともに、柔らかな陽射しがまた少しだけ差し込む。
新たな来客が、その光と一緒に現れた。
「おーい、お嬢ちゃん。また来たよ」
元気すぎる声が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
萌香がいつも通りの笑顔で迎える。
その隣で、婦人があからさまに顔をしかめた。
「……あらやだ、坂松の爺さんじゃない」
「なんだい、人の顔見るなりその言い草は」
と、入ってきた初老の男が苦笑いしながら手を挙げる。
年季の入った帽子を脱ぎ、コートをバサッと脱いで、
坂松は常連席らしき椅子に自然と腰を下ろした。
「ごめんな? 萌香ちゃん。このばあさんが煩くてな」
坂松が椅子に腰を下ろしながら、平然と言い放つ。
婦人は眉をひそめてすぐさま応酬する。
「何言ってんのよ。アンタのほうがよっぽど喧しいわよ」
「……あはは」
萌香が苦笑いを浮かべながら、メモ帳を手にする。
「ご注文は?」
「暖かい紅茶でいいや。それから……今日の夕刊、あるかい?」
「はい、今お持ちしますね」
萌香がレジ脇の新聞ラックに向かうと、
五十嵐がぼそっと呟いた。
「……あの二人が一緒にいるだけで、こっちのHPがジリ減りするんだよな……」
坂松は、紅茶が届くまでの時間潰しとばかりに、
メガネを指でくいと持ち上げ、カウンターの奥にいる五十嵐をじろりと見る。
「おう。若いの、ちゃんと真面目に勉強してんのかい?」
「……その“若いの”って言い方やめろ!!」
グラスを拭いていた手が止まり、五十嵐がすかさず声を上げる。
坂松は涼しい顔で肩をすくめた。
「いや、事実だろ。お嬢ちゃんと違って、君は顔に“苦学生”って書いてある」
「誰が苦学生だ!! っていうか“お嬢ちゃん”呼びもやめろよ」
カウンター越しに広がる、いつもの応酬。
そのやり取りを、紅茶を運びながら萌香がふふっと笑って聞いていた。
「やれやれ、口の悪い店員だな」
坂松が、ふうとため息まじりに紅茶を一口すする。
「悪かったな。めんどうな常連にはこんなもんだ」
五十嵐はグラスを拭く手を止めずに、そっけなく返す。
「もうっ、五十嵐くんたら」
萌香が苦笑まじりに声を上げる。
けれどその声には、とがめるよりも、この空気を楽しんでいるような響きがあった。
坂松も、それを分かっているのかいないのか。
「ま、気の利いた毒舌は嫌いじゃないよ」と、紅茶を口に運んだ。
「ところで──浩二よ」
紅茶を置いた坂松が、ふと思い出したように言った。
「……っ!」
五十嵐の手がピタリと止まり、耳まで真っ赤になる。
「急に下の名前で呼ぶなよ!! なんだよ、気持ちわりぃな……!」
坂松はわざとらしく肩をすくめた。
「いやぁ、そろそろ“男同士の話”でもしてみようかと思ってな」
「……くだらねぇこと言ってんなよ」
五十嵐はグラスを拭くフリをしながら、背を向けたままぶっきらぼうに返す。
「で? あの女の子とは、どうだい? 付き合えそうかい?」
「だからくだらねぇって言ってんだろ!!」
言葉と一緒に、拭いていたグラスがカウンターにコトンとぶつかる。
その音に、萌香がぽかんと振り返る。
「……え? なに? どの話?」
五十嵐はすかさず振り向いて叫んだ。
「お前は聞かなくていい!!」
「ええ……? 内緒話?」
萌香が首を傾げて、五十嵐と坂松のあいだをきょろきょろ見比べる。
「……聞くな。老人のくだらない下話なんか聞いたら、耳が腐るぞ」
五十嵐が顔を背けたまま、低く言い捨てる。
「はっはっは! こりゃまた酷い言いようじゃの」
坂松は声をあげて笑い、紅茶をすすりながら肩を揺らす。
「でも気になるなぁ」
萌香がぽつりと呟くと、五十嵐の肩がぴくりと跳ねた。
「……マジで頼むから、気にすんな」
「……いいから新聞に集中してろよ」
五十嵐がため息まじりに呟くと、
坂松はその言葉に素直に従うでもなく、ページをぺらりとめくった。
「おっ……春澤香子の不倫報道? こりゃあまいったなぁ」
その声に、萌香が反応する。
「えっ、春澤香子って……あの人ですよね? CMにもいっぱい出てる」
「そう。昔は“清純派の象徴”とか言われてた女優よ」
と、婦人がため息混じりに紅茶をすすった。
「まあ、こういうのが載ってるから新聞はやめられんのよ」
坂松がニヤリと笑いながら、記事に目を走らせる。
「……くだらねぇ」
五十嵐はそう言いながらも、横目でチラリと紙面を覗き込んでいた。
「はぁ……うちにも、春澤香子みたいなべっぴんの妻がいりゃあなぁ」
坂松が、新聞のページをめくりながらぼそりと呟く。
それを聞いて、婦人が鼻で笑った。
「アナタね、奥さん亡くしたばっかで寂しいのは分かるけど、あんまりそういうことばっか言ってるんじゃありませんよ」
声はやわらかいけれど、言葉には芯があった。
「恥ずかしいったら、ほんと」
坂松は返事をせず、しばらく新聞に目を落としたままだった。
その横で、メルちゃんがそっと前足を揃え、窓の外をじっと見つめている。
店内には、午後の光と珈琲の香りだけが、静かに満ちていた。
「……香子は、珈琲が好きじゃったよ」
坂松が、紅茶のカップを見つめながらぽつりと呟く。
「ワシはずっと紅茶派でな。味がどうのこうのって、しょっちゅう喧嘩しておった。……懐かしいの」
その言葉に、萌香がふと微笑んだ。
けれどその笑みは、ほんの少しだけ、寂しげだった。
「そうですね。奥様から頂いた食器──今も飾ってありますよ」
そう言って、カウンター奥の棚をちらりと振り返る。
淡い花模様のティーカップ。
光が当たると、どこか品のある色を返す、少し古びた磁器。
坂松は、それを見つめて、ひとつだけ、短くうなずいた。
坂松は、紅茶を一口啜ってから、静かに呟いた。
「……香子って名を聞くと、今でもドキッとするんじゃ」
「春澤香子って女優、昔から好きでの……」
ふっと、少し照れたような笑みを浮かべる。
「ワシの香子も、あの人と同じ字だった。それだけでな……この人しかおらん、って思ったんじゃよ」
「えっ……名前だけで、ですか?」
萌香が目を丸くする。
「そうそう。アホじゃろ? でも、ワシは本気だったんじゃ」
坂松は小さく笑いながら、残りの紅茶を口に運ぶ。
「“結婚しようや”って言ったら、“バカじゃないの”って笑われた。……でも、そのあとで、“……いいけど”って言ってくれてな」
その声には、今もはっきりと思い出せる“香子”の笑い声が乗っているようだった。
カウンターの奥、萌香はそっと目を伏せながら、静かに笑った。
「……浩二や」
坂松がふいに口を開く。
「うっさいな。なんだよ」
グラスを拭いていた五十嵐が、面倒そうに振り返る。
坂松は、少しだけ目線を伏せたまま呟いた。
「……苦くないコーヒー、あるかい?」
五十嵐は、一瞬だけ目を瞬かせたあと、ふっと鼻を鳴らす。
「……砂糖とミルク入れりゃいいだろうが」
そう言いつつ、すでにカウンター奥では手が動いていた。
豆の分量をほんの少しだけ変え、温度を調整する。
“あのカップ”で淹れることも、忘れなかった。
カウンターの隅。
誰かの記憶に灯をともす一杯のコーヒーが、静かに生まれようとしていた。
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