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社長室を出て、二階に戻った午後三時過ぎ、佐伯さんがフロアに来た。
人前だった。課長がいて、小森さんがいて、経理の人が二人いた。佐伯さんは、笑顔で課長に明日の資料のことを言って、それから、私の机の横に立った。
声を落とした。
「十二日、俺が、親族の前で写真を出す」
社長が持っている一枚と、同じものだ。社長の引き出しに入った紙を、佐伯さんはまだ持っている。
「止めたいなら」
佐伯さんは、机の上の、私の台帳を見た。
「提案の名前を、正式に俺のものと認める書面を書け。四月の集計は、佐伯慎吾の指示で作成した、と。日付と、お前の印で」
「……」
「お前、何でも書面にするだろ。得意だろ」
人前の声に戻しかけて、戻さなかった。小森さんが、少し離れたところで、こちらを見ているのが分かった。
私は、台帳の上に手を置いた。
「どちらも、渡しません」
「……どちらも」
「書面も、写真も。書面は書きません。写真は、出したいなら出してください。私が止めるものではありません」
佐伯さんの顔から、笑顔が消えた。
「後悔するぞ」
「記録は、後悔しません」
佐伯さんは、しばらく私を見ていた。それから、人前の声を作って、課長に「失礼します」と言って、エレベーターに戻った。
扉が閉まったあと、小森さんが来た。
「ひよりさん。今、何て」
「明日の話」
後悔するぞ、と言われた。後悔は、記録にない。記録にあるのは、日付と、数と、誰が何を言ったかだけだ。それを、私は六年、書いてきた。
「……明日、何かあるんですか」
私は、台帳を閉じた。
「小森さん。課長。お願いがあります」
四時、総務の奥の作業机に、紙を並べた。
課長が、人事と経理に「今日は総務の奥を使います」と内線を入れて、扉を閉めた。閉めてから、お茶を三つ淿れた。ぬるいのを、三つ。
四月の原本。方眼紙に鉛筆。課長の確認印のついたコピーと、原本の両方。書斎から、今朝、持ってきていた。持ってくるつもりで、鞄に入れていた。
六月十四日のメール。印刷した。件名、運用改善メモ。本文、形にしてくださる件。佐伯さんの返事、任せろ。
会議室Fの予約表。三年ぶん。扉に貼っていた紙を、月ごとに綴じたもの。
台帳のコピー。二階の欄。寄贈(匿名)の欄だけを、三年ぶん。名前は、どこにも書いていない。
課長は、並んだ紙を、長く見ていた。
「水瀬さん」
「はい」
「これ、明日、持っていくの」
「はい」
「何に使うの」
「分かりません」
本当だった。何に使うかは、決めていない。でも、持っていかなければならないことは、決めていた。
「使わないかもしれません。でも、持っていきます」
課長は、原本のコピーの隅の、自分の印を見た。原本と相違なし。大久保。
「じゃあ、この印、もう一つ押しておく。今日の日付で」
「……はい」
「明日、会場に行くからね。私も、小森も」
小森さんが、予約表の綴じを、きれいに揃えた。揃えながら、言った。
「ひよりさん。全部、ひよりさんの字ですね」
「そう」
「全部」
全部、私の字だった。六年ぶん。三年ぶん。四月の一枚。
課長が、束を封筒に入れて、封筒の表に、総務部、と書いた。それから、少し考えて、その下に、水瀬、と足した。
「持ち主の名前。要るでしょう」
「……はい」
五時に、鞄に入れた。紙の束は、思っていたより重かった。
夜。
専務が部屋に入ったあとの台所で、私は鞄を開けた。
明日、持っていく鞄。紺のワンピースに合う、黒い鞄。入れたのは、紙の束と、それと、緑の台帳。
佐伯さんの二択のことは、専務に言わなかった。常務の金のことは、言った。でも、提案のことは、私のことだ。私のことは、私が持つ。今日、そう決めた。
台帳は、入るかどうか分からなかった。入った。角が擦れた表紙が、鞄の口から少し見えた。
扉が開いて、専務が出てきた。水を飲みに。いつもの時間に。
専務は、鞄を見た。台帳の表紙を。
「持っていくのか」
「はい」
「何のために」
聞かれると分かっていた。答えも、決めていた。決めていたのに、声になるまでに、一拍かかった。
「私のためです」
専務が、止まった。
水のボトルを持ったまま。台所の入口で。
それから、専務は、笑った。
はっきりと。口の端だけでなく、顔の全部で。この二か月で、一度も見たことのない顔だった。
「やっと言ったな」
声も、笑っていた。
私は、鞄の口を閉めた。閉めた手を、しばらく鞄の上に置いていた。
専務は、水を飲んで、ボトルを置いて、まだ少し笑ったままの顔で、部屋に戻った。
戻る前に、言った。
「明日、隣から動くな」
「動きません」
スマホが、鳴った。
父からだった。夜の十一時。督促の時間ではない。
「ひより」
声が、変だった。
「お父さん。何」
「今日、昼に、桐谷って人が、来て」
「……桐谷」
「名刺を置いていった。桐谷商事の、専務の。それで」
父は、言葉を探していた。
「全額……返したって。九百八十万。銀行から、電話が来た。残りがゼロになった、って」
私は、鞄の上の手を、離した。
「……お父さん」
「あの人は、何なんだ。お前の、会社の人か」
答えられなかった。契約だと言えば、父は分からない。婚約者だと言えば、嘘になる。本当のことを言う言葉を、私はまだ持っていなかった。
「どういうことだ、ひより」
コメント
1件
うわ……第28話、すごかったですね。佐伯さんが人前で二択を迫ってくる場面、息を呑みました。「記録は、後悔しません」——ひよりさんのその台詞、本当に彼女らしくて、胸が熱くなりました。課長が印を押し直してくれたり、小森さんが「全部ひよりさんの字ですね」って言うところも、静かな連帯感があって好きです。そして専務の「やっと言ったな」……あの笑顔、私も見たかった。頼もしいですね。最後の父からの電話、桐谷さんが借金を返してくれたって……もう、どういうことなのか先が気になって仕方ないです。