テラーノベル
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夜の沼に、両腕を突っ込んでいた。
冷たく粘り気のある泥が肘まで絡みつく。返してくれ、と翼は叫んだ。沈めた記憶を、捨てた嘘を、そして冬真のことを――全部、返してくれ。
どうしてこんなことになってしまったのか。
3ヶ月前の自分に、今すぐ話しかけたかった。
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私立青葉台高校の男子制服は、首元まで詰まったダークネイビーの詰め襟だ。
5月の終わり、翼は喉の奥に息苦しさを堪えながら、端正な顔に「いつもの笑み」を貼り付けて昼休みを過ごしていた。
カースト最上位の三島が、唐揚げを口に放り込みながらこちらへ顔を向けた。
「おい、翼。お前もそう思うだろ?」
教頭の話し方を大袈裟に真似て周囲を爆笑させた直後だった。
「あ、うん。ちょっと空回りしてる感じはするよね」
翼はスマートフォンの画面を見たまま、周囲の空気を読むように微笑んだ。
声のトーン、表情の角度。すべてが「誰にとっても無害な自分」を証明するために整えられていた。
「だろ? あいつマジでうぜえわ」
三島は満足げに鼻を鳴らし、別の取り巻きの方へ向かった。
その瞬間、翼の胃の奥がキュッと縮んだ。
(また、やってしまった)
先週、進路のことで悩んでいた翼に、放課後遅くまで付き合ってくれたのはあの教頭だった。その恩を、自分の保身のために踏みにじったのだ。
「……また無理して合わせてるだろ、お前」
背後からかけられた低い声に、翼の肩から力が抜けた。
振り返ると、冬真が呆れたような、しかし奥深く穏やかな目でこちらを見ていた。三島たちの悪ノリには同調せず、かといって衝突もしない、毅然とした孤高を保つ男。翼の唯一の親友であり、この息苦しい学校生活の唯一の救いだった。
「冬真……。まあ、しょうがないよ。浮いたら終わりだし」
「そういう器用なところ、いつか自分が削れてなくなるぞ」
そう言いながらも、冬真は翼の好きな炭酸飲料の缶を机に置いてくれた。その指先がわずかに翼の手に触れた。それだけで、胸のざわつきが静まる気がした。
放課後、二人はいつものように自転車を押して帰路についた。コンビニで買ったアイスをかじりながら、薄暗くなりかけた住宅街を並んで歩く。
「冬真さ、本当は指定校推薦、教頭が勧めてくれたところで決めるつもりだったんだ」
ぽつりと打ち明けると、冬真は足を止め、真っ直ぐに翼を見た。
「なら、三島に何と言われようとそうしろよ。お前が本当に話すべき相手は、あいつらじゃなくて俺だろ。……俺だけを見てればいいんだよ、翼」
冬真の言葉は、翼の荒んだ心をいつも正確に救い上げた。ただ、胸の奥に澱のように溜まっていく自己嫌悪は消えない。
その夜、自室のベッドでスマホをスクロールしていると、地域向けSNSの匿名掲示板にある書き込みが目に留まった。
#お仕事
#秘密
『学校の裏手にある旧校舎跡地の「忘却の沼」。夜に嫌な思い出や自分の犯した罪を書き記した紙を泥の底に沈めると、その記憶はこの世から消失し、他人の頭からも消え去るらしい』
ただの都市伝説。そう切り捨てるには、その夜の翼の心はあまりにも脆かった。
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