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「この香り…」
藤澤は手首に乗せられたわずかな液体をそっと鼻に近づけた。
甘すぎず、苦すぎず、でもどこか懐かしい。
木漏れ日みたいに優しくて、でも奥に芯があるような。そんな匂いだった。
「気に入った?」
大森はカウンター越しに藤澤の様子をじっと見ていた。その眼差しはどこか研究者のようで、けれど僅かに熱を帯びていた。
「何の香りですか、これ」
「これは沈丁花。春のはじめに咲く花だけど、あえて真冬の調香で仕上げた」
「どうしてそんなややこしいことを……」
藤澤が小さく笑うと大森はふ、と息を吐いた。
「沈丁花は夜に香るんだ。昼間はただの地味な花。でも夜になると、人知れずすごくいい香りを放つ」
「夜に…」
「君もそんな感じがした。初めて来たときから」
藤澤ははっとして目を逸らした。
「また来ます」と言い残して、そそくさと店を出た。
その華奢ですぐ折れそうな背中に、香りと視線がまとわりついて離れなかった。
_____________
それから藤澤は週に一度、閉店間際に「MORI」に通うようになった。
「MORI」は居心地が良く、また店主である大森のどこか柔らかい雰囲気に惹かれすっかりお気に入りの場所になっていた。
最初はただぽつぽつと会社の愚痴をこぼすだけだった。それがいつの間にか店の奥のソファに自然と腰を下ろすようになり、香水に触れていくにつれて気づけば、香水をつけることに「意味」を見出すようになっていた。
「今日のは…なんだか、ちょっと苦いですね」
「ブラックペッパーとベチバー。ストレスと怒りが強かった日用」
「調香師って心理カウンセラーもやるんですか?」
「違うよ。僕はただ….君の「匂い」を覚えてるだけ」
不意に大森の顔が近づく。
調香の判断材料、と言い藤澤の首筋にそっと鼻先を寄せる仕草はあまりにも自然で、それでいてぞくりとするほど甘い。
「今日の君は、無理して笑ってる匂いがする」
「………っ」
「限界なら逃げてもいい。香りは逃げても咎めない。むしろそれを待ってる」
藤澤はその夜初めて泣いた。
店のソファにうずくまりながら香水に包まれて、子どもみたいに泣いた。
大森は何も言わず、そっと隣に座っていた。
_____________
その夜、大森は藤澤を家まで送ると言い出した。
「もう夜遅いし、足元ふらついてる。多分香り酔いだと思う」
「自分で作っといてそれ言います?」
「だから責任とる。なんならうちすぐそこだし」
泊まっていきなよとあっけらかんと言い放った。
結局、藤澤は香水店の2階にある大森の部屋で、一晩お邪魔することにした。
香りの瓶に囲まれた部屋。
無機質なのにどこかあたたかい。
お風呂に入ったあと、濡れた髪のままソファに腰を下ろした藤澤の首筋に、大森が再び顔を寄せた。
「この距離でも君はいい匂いがする」
「それ、香水じゃなくて僕の匂いってことですか?」
「…うん。香水より、君のほうがいい匂いだった」
そう言って大森は藤澤の唇にほんの一瞬、触れるだけのキスを落とした。
「君が許すなら、もっと近くで、香りを知りたい」
藤澤は、大森のシャツの裾を握りしめたまま、ゆっくりと目を閉じた。