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「じゃーん!今日はすき焼きにしちゃった」 桜那は鍋を運んできて、テーブルにセットしたカセットコンロの上に置く。
「おぉ!めっちゃ美味そう!」
宏章は目を輝かせて、テーブルの前に腰掛けた。
二人が付き合い始めてから、三か月が過ぎた。
宏章と桜那はお互いのスケジュールの合間に、こうしていつも桜那のマンションで一緒に夕食を取ったり、次の日が休みの時は、お酒を飲みながら映画を観たりして過ごしていた。会うのは決まって自宅で、外で会う事はなかったが、お互いがただ一緒に過ごせれば、それだけで幸せを感じていた。
「そういえば私、こないだキャバクラ行ってきたの」
「え?キャバクラ?なんでまた?」
宏章は突然キャバクラなんて不思議に思い、桜那へ尋ねた。
「今度キャバ嬢の役でVシネに出演するの。ちょい役なんだけどね。それで勉強も兼ねて行って来ちゃった!」
桜那は楽しげに声を弾ませた。
「へぇ〜、勉強熱心だな。それでどうだった?」
宏章もまた、興味津々に尋ねた。
「うん!ああいう場所初めて行ったんだけど、なかなか面白かったよ。色々と参考になったし。宏章はキャバクラ行った事ある?」
「あー……うん。付き合いで何回か行った事あるよ。でも俺、ああいう場所苦手なんだよね。なんか場違い感ハンパないし、何喋っていいか分かんないしさ」
宏章は苦笑いでため息をついた。
桜那はあははと笑うと、宏章らしいと思った。いつまで経っても東京に染まらない、素朴な所が宏章の良さでもあるから。
「それに実家が酒屋なだけに、酒の作り方とか原価ばっか気になっちゃって……。女の子の話なんか全然頭に入って来なかったよ」
宏章がそう言うと、ふと桜那は宏章の実家の事が気になった。
「宏章はさ、いつかは実家継ごうとか考えたりするの?」
桜那から突然質問されて、宏章はピタっと箸を止めた。
……実家か。
宏章は両親の事を思い出した。
桜那と出会う前はそれも考えていたし、自分の将来を考えると、いつまでこの生活を続けるのかと時々不安になる事もあった。
だが桜那と出会って、今がとても幸せで順調なので、あえて考えない様にしていた。
「どうだろう……、今は特に考えてないかな……」
宏章は曖昧に濁した。
その反応を見て、桜那は「そっか……」と呟き、それ以上は何も聞かなかった。
上京したばかりの頃は、それこそ実家を継ぐと思われる事が嫌で、何かやりたい事を見つけたくて地元を飛び出した。
だが結局やりたい事や夢なども碌に見つけられないまま、気が付いたら10年も経っていた。それでも何も言わずに今まで好き勝手させてくれた両親に感謝しているし、楽にさせてやりたいとも思っていた。
自分の目標に向かって一心不乱に努力している桜那といると、時々自分はこれでいいのかと不安になったりもした。それでもやっぱり桜那の側に居たくて、現実から目を背けて問題をなるべく先送りにしていたのだ。
「映画公開決まったら教えてよ。俺、絶対観に行くから。楽しみだな」
不安をかき消すように、宏章は笑顔を作った。桜那は宏章が一瞬考え込んだ事に気付いてはいたが、見ない振りをした。
桜那もまた、今が幸せだから不安になんてなりたくなかった。宏章がいない人生なんて考えられない。
桜那は少しずつ、宏章に依存し始めていた。
「ありがと、楽しみにしてて!」
桜那は明るく振舞うと、いつもの無邪気な笑顔で返事をした。
その後は何事もなかったかの様に二人でお喋りして、セックスをしてから眠りにつく。そして宏章は桜那のマネージャーが迎えに来る前に、朝方早くに帰るというのがいつものお決まりだった。
翌日、宏章は仕事帰りに今度桜那が出演するVシネの監督の別作品を借りようと、いつものレンタルビデオ店に立ち寄った。店内をうろついていると、ふとアダルトコーナーの前で立ち止まった。桜那のビデオをチェックするのに、以前はよく立ち寄っていたからだ。
その時宏章の横を中年男性が通り過ぎ、アダルトコーナーへと入って行った。
男性は無表情でじとっと湿った、まるで欲望に飢えた様な淀んだ目つきをしていた。
その瞬間、宏章は身の毛がよだち全身から嫌悪感が湧いて来た。
急いでその場を立ち去り、自宅へ戻るとテレビボードの収納から桜那のビデオを全部取り出して、勢いよくダンボールに詰めてガムテープで閉じた。
あの男の欲望に飢えた淀んだ視線が、桜那へ向けられるのかと思うと、怒りと憎悪で一杯になった。まるで桜那そのものが凌辱されているような気がして……。それと同時に、後ろめたさが襲ってきた。以前は自分も、もしかしたらあんな目をしていたのかと思うと、次第に自分自身に対する憤りと嫌悪感が湧いて来た。一度でも桜那を身勝手な欲望の対象にしてしまっていたのかと思うと、自分が心底悍ましく、その下劣さにどうにかなってしまいそうだった。
まるで自分自身の感情に蓋をするかの様に、ダンボールをクローゼットの奥にしまい込んだ。目に触れないようにする事で、このどうしようもない負の感情から逃れようとしていたのだ。
数日後、宏章は仕事帰りに桜那のマンションに寄って一緒に過ごしていた。だかここの所あまりよく寝付けなかったので、心ここに有らずといった様子でソファに腰掛け、ぼんやりとしていた。
「……き……宏章!」
桜那の呼ぶ声で、宏章はハッと我に返った。
「どうしたの?さっきからボーっとして……、大丈夫?」
「あっ!うん……今日忙しかったからかな……、ちょっとボーっとしてた。ごめん」
宏章は心配かけまいと笑顔を見せた。
数日前のレンタルビデオ店での出来事以来、宏章はよく眠れずにいた。
目を閉じるとあの淀んだ視線が浮かび上がり、如何ともし難い、不快な感情に飲み込まれてしまいそうになるのだ。
「なんか顔色もよくないし……、心配だよ」
桜那はため息をついた。
「ここ二、三日仕事が忙しかったから……、ゆっくり休めば大丈夫だよ」
「ほんとに?」
桜那は心配そうに宏章の顔を覗き込んだ。
そんな桜那が愛おしくて、宏章は堪らず桜那の頬に手を添えてキスする。
桜那はうっとりと目を閉じた。
今日は心なしかいつもより強く、深いキスだ。
……ああ、まただ。
……あの淀んだ視線が浮かんできた。
……このまま桜那をめちゃくちゃに抱きたい。
宏章の心は激しい独占欲と嫉妬が渦巻いていた。
「シャワーしてくるね」
桜那は宏章の手にそっと触れて、顔を赤らめながら微笑んだ。
……よかった、暴走するところだった。
宏章は安堵した。
あれ以来、宏章の感情は激しく揺れ動いていた。本音では、AVになんか出て欲しくないと思っていた。その美しい姿を誰にも見せないで、誰にも指一本触れさせないで欲しいと思う一方で、桜那の夢を応援したい、支えてやりたいとも思っていた。
振り子のように揺れる、そのどっちつかずの感情が迷いとなり、無意識のうちにいつしか行動へと表れる様になっていた。
シャワーを済ませると、桜那はいつものように宏章を求めた。先程のキスとは違う優しいキスから始まり、ゆっくりと舌や指を動かして、桜那の反応を確かめながら、慈しむように全身を愛撫する。
宏章は毎回必ず、「桜那、気持ちいい?」「桜那、痛くない?」と尋ねた。今日もまた、優しく問いかけられて桜那が頷くと、宏章は安堵した表情を浮かべた。
桜那は宏章とセックスした日はいつもよく眠れた。宏章からの愛情と尊重されているのを感じるからだ。
だがその優しさが時々もどかしくもあった。桜那に対して、どことなく遠慮めいたものを感じ取っていたからだ。
宏章には、もっと欲望のままに抱いて欲しいと思っていた。こんなに大事にされているのに、贅沢な悩みなんだろう……桜那は宏章に優しくされる度に、少しずつ不安が募っていった。
宏章が自分に対して今一歩踏み込んで来ないのは、この仕事のせいなんじゃないかと思い始めていた。
だけど宏章との事は誰にも相談出来ない。
桜那が芸能界で一番尊敬して、信頼している先輩の侑李にですら。
桜那は次第に、宏章にはAVの撮影に関する事を言えなくなっていた。桜那もまた、宏章に対してどことなく後ろめたさの様なものを感じ始めていたのだ。
宏章は仕事帰りに街をぶらぶら歩いていると、いつも立ち寄っていたレンタルビデオ店の前でふと足を止めた。
楽しげに入って行く学生達をよそに、宏章はふいと視線を逸らして足早に立ち去る。
あのレンタルビデオ店での出来事以来、アダルトショップはおろか、レンタルビデオ店ですら入る事が出来なくなっていた。
桜那はAVだろうと映画だろうと、自分の仕事に誇りとプライドを持ってやっている。そんな桜那を尊敬していたはずなのに……。頭では理解していても、感情がどうしても追いつかない。
宏章は自分の狭量さに心底落胆した。
せめて桜那にこの感情を悟られまいと必死で、宏章は次第に、桜那の心の機微を感じ取る事が出来なくなっていた。
その頃、桜那はAVの撮影に臨んでいた。
撮影中は相変わらずの集中力で、目線や表情、声を意識し、柔らかい体をくまなく動かして魅せ場を作る。
桜那はチュクチュクと音を立ててフェラをする。目を閉じると、ふと初めて宏章に出会った時の事が頭を過った。
「どのコマも表情意識して美しく魅せているところとか、本当にプロだなって思ったよ!」
ビデオの感想を尋ねた時の、宏章の台詞。
……あの時はああ言ってくれたけど、今はどう思ってるのかな?
全く平気な訳じゃないだろう。平気だと思われているのなら嫌だし、悲しくもあった。だが最近はむしろ、あの時の台詞のまま今もそう思っているのなら、少しは後ろめたさもなくなる……そんな風に思い始めていた。
男優相手にフェラをしていても、まったく何にも感じない。まるでゴム製の張形を咥えているみたいだ。挿入されようと同じだ。麻酔を打って、感覚が麻痺したかの様に、体温も肌の感触も何もかも。
自分もまた、よく出来たラブドールの様だ。
生身の人間になれるのは、宏章としている時だけ。
口内に舌を押し入れられた時の生温かさ、中で絶頂を迎えた時の脈打つ粘膜。それを感じた時、初めて生きている実感が湧いた。
……宏章はいつも、私を「一人の人間」として尊重してくれるから。
どう動いて、どう声を出せばいいか分かる。どう魅せれば、男達を悦ばせられるのかも。だけど、宏章の心だけは分からない。すべてを曝け出して、もう失うものなど何もないと思っていた。文字通り、裸一貫からのスタートだ。怖いものなど、何ひとつないと思っていたのに……。
……今は、宏章の本心を知るのが怖い。
……宏章を失う事が、ただただ怖い。
長丁場の撮影を終え、複雑な気持ちを抱えたまま自宅に戻ると、気を紛らわすように一人ワインボトルを開けた。
……最近結構飲んでるな、気をつけなきゃ。
頭を抱えて、疲労のため息をつく。
桜那はここのところ、帰宅後は毎晩のように飲んでいた。もともと酒は強く、以前は一日の終わりのご褒美と称して美味しく飲めていた。だが最近は、大好きなワインですらあまり味を感じられずにいた。結局その晩はそのまま飲み続け、気付けばいつの間にかテーブルで寝落ちしていた。
目を覚まして傍らの携帯に手を伸ばすと、宏章から今月のスケジュールがメールで送られてきていた。桜那は笑顔になり、手帳でスケジュールを確認する。日曜の夜には会えそうだと返事をすると、宏章から日曜は早く帰れそうだとすぐに返事が来た。
……今週も頑張ろう。
桜那は嬉しそうにふふっと笑い、携帯を握りしめた。
いよいよ待ち侘びていた日曜を迎えた。
桜那は仕事を終えて帰宅するが、一向に食欲が湧いてこない。酒のつまみになりそうな惣菜を数点、とりあえず買ったのみで何も用意していなかった。
桜那が冷蔵庫を開けて何を作ろうか思いあぐねいていると、チャイムが鳴った。仕事を終えた宏章が思いの外早くやって来た。
桜那は急いで解錠して、笑顔で宏章を出迎えた。
「いらっしゃーい!早かったね。私も今帰ったとこだよ」
「ああ、ごめん。なんか思ったより早く着いちゃって……」
宏章が済まなそうに言うと、桜那はすかさず首を横に振った。
「ううん、早く宏章に会いたかったから嬉しいよ。ごめんね、まだご飯の支度できてなくて……」
そう言いかけた桜那は、どことなく疲れて見えた。
「桜那、座ってなよ。俺が飯作るから。冷蔵庫開けていい?」
「え?でも宏章仕事帰りで疲れてるでしょ?」
「それは桜那も同じだろ。いつも作ってもらってるし、今日は休んでなよ」
宏章はそう言って、桜那の頭に優しく手を置いた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えちゃおうかな。ありがと」
桜那はブランケットに包まり、ソファに腰掛けた。
手際良く調理する宏章の後ろ姿を見ていると、なんだか安心して心休まるのを感じた。
宏章は調理を終えて、鍋をテーブルへ運ぶ。
桜那へ視線を向けると、すうすうと寝息を立てていた。しゃがみ込んで手を伸ばし、そっと髪に触れると、桜那がゆっくりと瞼を開いた。
「ごめん、起こしたね。飯出来たけど食べる?」
桜那は目を擦って、小さく頷いた。
その仕草が子どものようで、宏章は庇護欲を掻き立てられた。
桜那もまた、宏章の優しさに甘えていた。
子どもの頃欲しくても得られなかった安らぎを、無意識のうちに宏章へ求めていたのだ。
「いい匂い……何作ったの?」
「塩野菜タンメン!すぐ出来るし、麺にした」
それを聞くなり、桜那は嬉しそうに笑った。
「私ラーメン大好き!最近食べてなかったから嬉しいよ!」
桜那は立ち上がり、買っておいた惣菜をテーブルに並べ始めた。
宏章はふっと小さく笑ってテーブルに腰掛け、ラーメンをよそう。桜那は両手で受け取って、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、宏章!いただきまーす」
美味しそうに頬張る桜那を見て、宏章が安堵したのも束の間、桜那は食べ終えるとワインを開け始めた。
桜那は宏章が作ったタンメン以外、ほとんど食事に手をつけずに酒ばかり飲んでいた。宏章が心配そうに「桜那、食べないの?」と尋ねると、「あんまりお腹空いてないから。宏章は遠慮なく食べて」と笑顔で答えた。
宏章はここのところ桜那の酒量が増えている事が気になっていた。
いつも自分が一緒の時は、さりげなくストップをかけていた。
「桜那、俺やっぱり今日泊まってもいいかな?朝早くに出るからさ」
宏章がそう言うと、桜那は嬉しそうにパッと顔を上げた。
「ほんと?嬉しい!」
明日は早くから仕事だと聞いていたので、宏章は泊まらずに帰るつもりだったが、やはり心配で朝まで側にいる事にしたのだ。
「じゃあ一緒にお風呂入ろうよ!」
桜那が唐突に言い出し、恥じらいから宏章は慌てふためいた。
「えっ!それはちょっと……」
「えぇ〜!何でよ?」
「いや、ほらなんかまだ慣れないし……」
「慣れないって……、あんだけシといて?」
桜那が呆れながら、何言ってんだとばかりに不思議そうな顔をする。
宏章が「それとこれとは別だろ?」と返すと、桜那はため息をついて、寂しそうにむうっと頬を膨らました。
その顔を見て、宏章はいよいよ根負けした。
「分かったよ」
桜那はパッと目を開き、勢いよく体を起こすと、「じゃ!準備してくる」と上機嫌でバスルームへ向かった。以前の様に呼び出しが鳴ってからバスルームへ向かうと、宏章は緊張気味にドアを開けた。
桜那はまた前と同じくピンクに染まったお湯に浸かっていた。
相変わらずすっぴんでも美しく、濡れた髪や素肌、まつ毛を見ていたら体が次第に反応してきた。悟られまいと、宏章は速やかに洗髪して湯船に体を沈める。すると入浴剤のいい香りが漂って来た。
「この入浴剤いい香りだね。なんの香り?」
宏章が尋ねると、「ああ、これ?」と言って桜那は傍に置いてあった入浴剤の瓶を手に取った。
「チェリーブロッサムだって。でも桜の香りじゃなくて、チェリー、ピーチ、カシス、バニラ……色々混ざってるみたい。これ一番好きな香りなの」
桜那がそう言うと、宏章は両手でお湯を掬って顔を近づけた。
「桜那の香りがする、さくらの香り。俺は桜を見る度に、桜那の事思い出すんだろうな」
宏章が呟くと、桜那はにっこりと微笑んだ。
「春になったらお花見行こうよ。毎年一緒に見れたらいいな」
二人は顔を見合わせて笑った。
桜那が入浴後はスキンケアに時間がかかると言うので、宏章は先に上がり、ソファに腰掛けて待っていた。一人になると、先程の桜那の様子が頭を擡げた。
……やっぱり仕事の事で焦りがあるのかな。
実際の所、桜那の仕事は順調そのものだった。
昨年末に、桜那が有料チャンネルのアダルト部門最優秀女優賞に選ばれて、それこそAV女優としては、相変わらずの人気を誇っていた。だけど、桜那のゴールはそこじゃない。それは側で見ていて宏章は充分分かっていた。でも自分には側にいて、せいぜい話を聞いてやる事くらいしか出来ない。もっとも話を聞いたとて、自分は何のアドバイスも出来ないし、励みにもならない事も分かっていた。
宏章はそんな事を考えながら、やるせない気持ちでいた。すると入浴を終えた桜那が戻ってきた。
「宏章、明日休みでしょ?今日は夜更かしして映画観ようよ。これ、私が一番好きな映画なの。今度この監督のオーディション受けるんだ!」
桜那は手にしていたDVDを嬉しそうに見せる。『Honey Kiss me Honey』というタイトルの映画だった。
「へぇ、どんな話なの?」
宏章が尋ねる。
「それは、見てからのお楽しみ!高校の時にこの映画初めて見たんだけど、ストーリーはもちろん映像も雰囲気も、何もかもが素敵で!もう夢中になっちゃって!それからもう何回見たかも分かんないくらい!セリフも全部覚えてね!それくらい私には思い入れのある映画なの!」
桜那は興奮しながら熱く語ると、ブランケット片手にソファへ腰掛け、DVDをセットして再生ボタンを押した。
桜那が好きだと言ったその映画は、羽仁衣という名の少女が、兄に恋をするという近親相姦をモチーフにした映画だった。ショッキングな題材に対して、二人の日常が淡々と綴られつつ、徐々に関係が綻んでいく様が描かれていた。物語は大きな起伏もなく緩やかに進んでいくが、映像や所々に挿入される音楽が独特の美しさを放ち、気付けばいつの間にか引き込まれていた。
ふと横目で桜那を眺めると、目を潤ませながら真剣に見入っていた。映画の主人公がどことなく桜那と重なって見えて、宏章はこの監督の映画で桜那を見てみたいと思った。
映画を見終わっても、桜那はしばらく物語の余韻に浸っていた。感嘆のため息を漏らし、「あぁ、やっぱりいつ見ても素敵だな……」と呟いた。
「いやぁ、俺も引き込まれちゃったよ!普段恋愛映画って観ないんだけど、すごい良かった。俺も好きだなこの映画」
宏章が感想を語ると、でしょ!と桜那は嬉しそうにきゃっきゃとはしゃいだ。
「この映画の主人公、桜那と雰囲気が似てるよね。俺、この監督の映画で桜那を見てみたいな……」
宏章は心からそう思っていた。
幻想的な映像の中、憂いを帯びた眼差しで立ち尽くす桜那のイメージが浮かんでいた。
「本当?嬉しい!この監督の映画に出る事がずっと夢だったの!またとないチャンスだもん、頑張るね!」
夢を語る桜那の笑顔は、キラキラと輝いてより一層美しさを増していた。
「オーディションいつなの?」
「一か月後!この次こそは絶対に取りたいの……、やってみせるよ!」
桜那の気迫に宏章は圧倒されたが、どこか不安そうでもあった。どうしてもという強い願望の裏返しなのだろう。このオーディションにかける強い意気込みが、ひしひしと伝わってきた。
宏章は桜那の頭にポンと優しく手を置く。
「桜那なら出来るよ」
宏章は煽てるでも気休めでもなく、心からそう思っていた。宏章にそう言われて、桜那は役に賭ける気持ちを、より一層強くしたのだった。
そして、いよいよオーディション当日を迎えた。映画の台本の一部を渡されると、桜那は高い集中力を発揮して、ものの数分で丸暗記した。『誰にでも秘密がある』というタイトルの映画で、連続強盗犯の男に、そうとは知らず恋に落ちる少女という役柄だ。
会場を見渡すと、今流行りのアイドルグループのメンバーや、最近売り出し中の大手事務所に所属するタレント達が集まっていた。桜那も含めて、知名度の低い駆け出しのタレントばかりだった。
定刻になり、一人ひとり隣の部屋へと呼ばれていく。
いよいよ桜那の番が回ってきた。
監督やプロデューサー、関係者らが見守る中で、桜那は役に対する意気込みと、監督の作品に対する愛をこれでもかとアピールした。演技テストを終え、丁寧に挨拶をして部屋を出る。
……今日は今までで一番良い出来だった。
桜那は自分の演技に手応えを感じていた。
やっと緊張感から解放され、そういえば……と会場入りしてから一度もトイレに行っていない事に気付いた。外でマネージャーを待たせていたため、桜那は急足でトイレへと駆け込む。すると先客がいたようで、なにやら話し声が聞こえてきた。
桜那は思わずドアの裏に隠れた。
ちらっと横目で覗き込むと、先程一緒にオーディションを受けていた、アイドルグループのメンバー二人組だった。
そのうちの一人が、どこから聞きつけたのかオーディションへの不満を漏らした。
「どうせ吉川にいなで決まりなんでしょ?やってらんないよね。出来レースじゃん?何の為にオーディション来たの?ってカンジ」
それを聞くなりもう一人が、諦めからため息混じりに答える。
「しょうがないよ、大手事務所の今一番プッシュしてる子だもん。彼女のために脚本も変えたみたいだし。いくらオーディションで彼女以上の子が見つかったらって言っても、スポンサーの手前難しいでしょ。所詮事務所の大きさには敵わないよ」
……どういう事?もう役は決まってるって事なの?
桜那は困惑して、その場から動けずしばらく立ち聞きした。
吉川にいなとは、大手事務所に所属している19歳のタレントだ。
ティーン誌のモデル出身で、この頃はCMやドラマ、バラエティなどで露出が増えていて、事務所が一番力を入れて売り出しているのは目に見えていた。
「そういえばさ、あの桜那って子、確かAV女優だよね?」
一人が思い出した様に桜那の話題を出すと、もう一人が嫌味たっぷりに下品な笑みで返す。
「すごい気合い入ってたけどね、AV女優じゃぶっちゃけ主演なんて無理じゃない?スポンサーがいい顔しないでしょ」
「まあでも枕でもすれば一発じゃない?顔はずば抜けて可愛いし、テクもあるだろうから余裕でしょ。AV女優なんだから」
二人はクスクスと笑いながら桜那を貶した。
……私がAV女優だから?
こんな女同士の陰口など日常茶飯事なので、普段なら全く気にも留めなかった。だが役に対する思い入れと意気込みが余りに強すぎて、桜那はショックでいよいよ心が折れてしまった。
帰宅する車中で、桜那は顔を伏せたまま俯き、一言も喋らなかった。声を掛けるなと言わんばかりに、窓に寄りかかりながら腕を組んで、ひたすら寝たふりを決め込んだ。
自宅に戻るなり、桜那は冷蔵庫からビールを取り出し、一気に流し込んだ。カンを叩きつけるようにテーブルに置くと、悔し涙が一気に溢れ出した。
今まで何度もオーディションに落ちても、その度に自分を奮い立たせてきた。だけど今日は耐えられない。桜那はテーブルに突っ伏して声を上げて泣いた。泣いても気持ちが収まらず、桜那はパントリーにしまってあるワインを開けた。夜には仕事を終えた宏章が泊まりに来る。それまでに心を落ち着けなければと、どんどん酒量が増えていった。
桜那は焦っていた。
三年でトップになるという目標はもうすでに達成していたが、肝心の次に繋げる事が中々出来ずにいた。AV女優を引退する為に社長と交わした約束は、映画の大役を取る事だった。それが出来たら引退を認めると。
桜那は最初こそ、ただ長谷川リュウに一矢報いたいという、半ば復讐の様な気持ちでやっていたが今は違う。純粋に演技がしたい、もっと自分の可能性を広げて世間に認めてもらいたいと思っていた。それにAV女優を引退すれば、少なくとも宏章との事を思い悩む事はなくなるだろうと。後ろめたさがなくなれば、もっと心置きなく宏章と愛し合う事ができるだろうと思っていた。
だが何度チャレンジしてもオーディションは落ち続けるばかりだ。自信を失いかけていた所に今日の陰口が耳に入り、桜那は完全に自信を失った。
どうにか心を保ち、気持ちを繋げようとして酒に走った。お酒を飲めば気が紛れて、痛みを忘れられるだろうと思ったが一向に酔えず、桜那はもう酒量のコントロールすら出来なくなっていた。
……どのくらい飲んだかな?そろそろ宏章が来るから止めなきゃ。
ちょうどその時チャイムが鳴り、仕事を終えた宏章がやって来た。
桜那はだいぶ飲んでいたが、お酒は強い方だし、いつも通りに振る舞えるだろうと思っていた。はーいと返事して解錠すると、上がるよと声をかけて宏章が入ってきた。
桜那はゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで宏章を出迎えた。「あー……いらっしゃーい」といつものテンションで答えたつもりが、まともに呂律も回っていなかった。
その瞬間、ふらっとよろめいて倒れかかった。
宏章は急いで駆け寄って桜那を受け止めたが、バランスを崩して桜那を抱えたままその場に崩れ落ちた。
「桜那……ずっと飲んでたの?」
宏章が部屋を見渡すと、大量の酒瓶やビールの缶がそこら中に転がっていた。
そして普段は飲まないウイスキーの飲みかけがテーブルに置いてあった。桜那は「ううん。そんなに飲んでないよー」と見え透いた嘘を吐いた。
「そんな訳ないだろ!何かあったのか?」
宏章が心配して尋ねると、桜那は堰を切ったように思いが溢れ出し、止まらなくなった。
「なんか今日のオーディションもダメっぽい。もう役は決まってるんだって。こんな出来レースの為に頑張って馬鹿みたい。私なんて所詮AV女優だしね。私って才能ないのかも……、それとも努力が足りないだけなのかな……」
……そんなはずない!桜那の才能も、今までどれだけ頑張って来たのかも俺が一番よく知ってる!
そう思ったら、宏章は桜那を遮るように咄嗟に大きな声を出した。
「桜那!」
桜那はその声にビクッとした。
いきなり宏章が大きな声を出したので、桜那は怒られたんだと思った。こんなに飲んで弱音を吐いて、きっとダメな奴だと思われた……それか面倒な女だと呆れて見捨てられるかも……そんな事を考えていると、宏章がぎゅっと桜那を強く抱きしめてきた。
「桜那が頑張っている事、俺は知ってるよ」
桜那はまさかそんな事を言われると思ってなかったので、驚いて顔を上げると、宏章は優しく微笑んでいた。
その笑顔を見たら急に安心して、桜那は子どものようにふえーんと声を上げて泣き出した。
心の奥底で複雑に絡み合っていた不穏な感情が、みるみる解れていく。
……そうか、私はずっとこんな風に言って欲しかったのかもしれない。たった一人でいいから、誰かに認めてもらいたかっただけだったんだ。
宏章は桜那が泣き止むまでずっと背中をさすりながら抱きしめた。
桜那は宏章の腕の中の温かさで、いつの間にか眠ってしまった。
宏章はぐっすりと眠る桜那をベッドに運び、桜那の手を包み込む様にそっと両手で握る。
「俺が側にいるよ……」
そう小さく呟いて、宏章はしばらく桜那の顔を切ない表情で眺めていた。
……眩しい……頭痛い。
桜那が目を覚ますと、すでに太陽が高くなっていて、あたりはすっかり明るくなっていた。
ふと横を見ると、宏章が桜那の手を握ったまま眠っていた。
……ずっと握ってくれてたんだ。
桜那は愛しさが込み上げてきて、涙を滲ませた。
昨晩飲みすぎたせいで、頭も胃も重く寝覚めは最悪だった。だが何故か心は晴れ晴れとして、清々しさを感じていた。
部屋を見渡すと、桜那が飲み散らかした酒瓶やカンも綺麗に片付けられていた。
「……ん」
宏章も日差しで目を覚まして、ゴソゴソと体を動かし始めた。
バッと勢いよく体を起こし、心配そうに桜那の方を振り返る。
「……おはよう」
桜那は穏やかな表情で、幸せそうに微笑んでいた。
その顔を見て、宏章はホッとして桜那を強く抱きしめた。桜那はそっと宏章の背中に手を回し、ぴったりと体をつけて、しばらく宏章の体温を感じていた。
すると突然、ぐうーっと宏章のお腹が鳴った。
宏章は昨晩から何も食べておらず、安心したら急に腹が空いてきたのだ。
「……ごめん」
宏章が照れながら呟くと、桜那は吹き出して、あははと声を上げて笑った。
「ごめんね、昨日から何も食べてないもんね。今から何か作るよ」
「いや!俺が用意するよ……」と宏章は遠慮するが、「いいの、私が作りたいの。私シャワー浴びてくるから宏章はテレビ見て待ってて」と言って桜那は早々にバスルームへと向かった。
元気そうな桜那の姿に安心して、宏章はとりあえずテレビを点けた。
時計を見ると11時半を過ぎていて、お昼の情報番組が始まっていた。
……あ!秦野侑李だ。
お昼のバラエティのゲストで、秦野侑李が出演していた。
しばらく食い入る様に見ていると、秦野侑李が素っ頓狂な受け答えをして、周囲からどっと笑いが巻き起こった。宏章もつられて思わず声を出して笑っていると、シャワーを終えた桜那がちょうどそのタイミングで戻ってきた。
「侑李さん、すごいよね。こんな返しが出来るんだもん」
桜那は尊敬の眼差しで、テレビ画面の侑李を見つめていた。
「桜那もバラエティでは、充分面白いと思うけど」
宏章が答えると、桜那はため息をついて笑った。
「それは事前にかなり準備してるから。私は台本かなりじっくり読み込んでから収録に入るんだけど、侑李さんはものの数十分くらいで全部頭に入っちゃうの。それであの返しでしょ?あの現場での瞬発力や理解力とか、本当に天才なんだと思う。それに侑李さんて、すごく求心力があって……。いつの間にか、侑李さんの周りにはいい人が集まってくるの。もちろん本人の、人を嗅ぎ分ける嗅覚も凄いんだけど……、AV女優時代からそうなんだって。昔は色々と本人も苦労したみたいなんだけどね。私はやっぱり、ああいう風にはなれないから……」
桜那は悲しげに肩を落とした。
テレビ越しに見る秦野侑李は、それこそ桜那が教えてくれたイメージそのままの、自然体でいつの間にか周囲を惹きつけるような人間だった。宏章も無意識のうちに目で追って、引き込まれてつい笑ってしまっていた。
宏章も初めは秦野侑李が元AV女優だと言うことは全く知らず、後から知って驚いたくらいだった。
現役の頃がどうだったかは分からないが、少なくとも今のポジションになるまでには並大抵の努力ではなかったろうし、桜那の言う通り、本人の才能も凄いんだろうという事は、一般人の宏章ですら感じていた。
「じゃあ桜那は努力の天才だな。そこまで自分を追い込んで努力できるのも才能のうちだろ。なかなか出来る事じゃないよ」
宏章は心からそう感じていた。
それと同時に、桜那の事が羨ましくもあった。宏章は今までの人生で一度も、そこまで情熱を傾けられるものがなかったから。夢に向かって、ひたむきに努力し続ける事ができる桜那に、羨望と尊敬の念を抱いていたのだ。
桜那は宏章の言葉で、みるみる肩の力が抜けていった。
今までずっと誰かに認めてもらいたくて肩肘張って生きてきたが、そんな自分に疲れ果ててもいた。
宏章と居るとそのままの自分でいてもいいんだと思えた。
桜那にとって、宏章は安息の場そのものだった。
「宏章、ありがとう!私また頑張れそうだよ」
桜那は目を輝かせて、穏やかな笑みを浮かべた。
「充分頑張ってるから、頑張り過ぎないでほしいけどね。俺は何も出来ないかもしれないけど、せめて側にいさせてよ」
そう言って苦笑いする宏章を、桜那が後ろからぎゅっと抱きしめて耳元で囁く。
「充分だよ」
宏章は目を閉じて、しばらく桜那の温もりを感じていた。
その後二人は一緒に昼食を取って、天気も良いので散歩しようかと太陽の下、二人並んで歩いた。
近くのカフェでコーヒーをテイクアウトして、夕飯の買い出しをしただけだったが、それだけで充分幸せだった。
桜那が残念そうに、「せっかく二人ともオフだったのに、私のせいで勿体ない事しちゃった」と言うので、「お出掛けなら、またいつでも行けるよ」と宏章が答えると、桜那は嬉しそうに笑った。
だがこの幸せな時間が、徐々に二人の関係が綻んでいく前触れでもあったのだ。
まるで、嵐の前の静けさの様に。