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◇私だって幸せになりたい
―― 水野俊をホテルのラウンジに呼び出した恵子はその時…… ―――
「今日は来てくれてありがとう。
桃に私たちのことがバレちゃってから会えなくなって寂しかったのよ」
「淡井さん、約束忘れましたか?
妻との間で僕とは今後一切会わないと約束してますよね?
それで妻はあなたから慰謝料取ることを止めたのですから」
「分かってるわ。
だ・か・らぁ~、こうして会うだけでいいのよ。
たまにこうしてお茶して、お話をして、それだけ。
デートを楽しむだけなんだから。
以前のようにホテルに入るわけじゃありません。
桃だってこれなら文句言えないんじゃないかしら。
だいたい、こんな素敵な人を独り占めするなんて
桃は心が狭すぎるのよ」
「淡井さん、この際桃のことは関係なくてですね、僕の気持ちなんですよ。
僕はあなたとのことをものすごく後悔しています。
桃に許しを請う日々の中で例え昼間のただのデートであっても
許されない行為だと捉えていますし、許すだとか許されないだとかと言う前に、
僕が……僕自身が妻だけを想っていたいのです。
僕は妻を愛しています。
今も、そしてこの先も愛するのは大切に想うのは妻の桃だけですから、
今後あなたと会うことはできません」
「もう、水野くんったらぁ。
そんな建前はよそう? 分かってるって。
だってこうして会いにきてくれたんだもの、桃の手前そう言うしかないのは……ァッ」
なんとか分かってもらおうと話し合いに来たというのに、目の前に座る
おかしな女は的外れな返事しかせず、困った人だなぁと思っていたら、
彼女は突然前方を見つめたまま、次の言葉も発せず固まってしまった。
誰か知り合いでも見つけたのかと彼女の視線の先にいる人物を見るために
俺はそちらを振り返った。
すると桃がいて、こちらに向けて歩いてくるのが見えた。
いけないっ、ちゃんと説明しないとと思い俺は席を立ち
「桃、違うんだ、聞いて……」と話しかけた。
手が届きそうなところまで桃が来た時、彼女が無表情で俺の腹辺りに
拳か何かで叩くようなつつくような仕草をしたように感じた。
怒ってるんだろうなぁ~、けど仕方ないよなぁ~、後でちゃんと
説明しなきゃなーとか考えていたらブアッと足元から力が抜けて
スルスルと自分の身体が床の上に崩れ落ちるのが分かった。
この時自分の腹の辺りに刺さっているナイフを見て、初めてさっきの衝撃は
手の拳などではなくてナイフだったことを悟る。
とうとう自分の不注意で、刺されるほど桃に嫌われてしまったことを知り、
ただただ悲しみに暮れながら俺は意識を手放した。
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◇戦慄が走る
刺した!
桃が自分の旦那を刺した。
直接刺されたところは見てないけど、水野くんが床に崩れ落ちたのを見て
おそらくそうだろうと思った。
『やったー! 成功したのだ。
桃から水野くんを奪うことに成功したのだ。やったね!』
それは事実ではないけれど、桃がそう思ったならそれが真実になる。
この一瞬だとしても私は桃に勝ったの。
旦那を奪ってやった。
そして私と同じようにパートナーに裏切られた可哀そうな女になったのよ桃は。
アッハハー、なぁ~にが結婚よ、なぁ~にが妊娠よ、これ見よがしに
見せつけてくれちゃってからに。
幸せなんてそもそも人生の中で一瞬ものなのよ。
一人勝ちなんて許さない。
恵子は俊が倒れ込んだというのに自分の感情という名の世界に浸り、
ほくそ笑んでさえいた。
しかし、それと共に水野俊以上に桃から憎まれている自分も刺されるに
違いないという二つの考えに支配され震える両方の脚を上手く使えず、
動けず、その場で桃を迎えることになってしまった。
桃の両手を見るも刃物は持っていないようで恵子は少しほっとした。
……のも束の間、ものすごい力で髪の毛を掴まれブンブン振り回され
凄まれた。
怖い台詞を言われ続け、その間『誰かー、助けて~』と恵子はそればかりを
念じ続けた。
『その自慢の顔に薬品ぶっかけてグチャグチャにしてやるから』などと
脅された時には、恥ずかしい話だが恵子は下着を濡らしてしまった。
恵子が警察署で事情徴収された時には、桃の勘違いで一連のことは
感情的になった水野桃の起こした傷害事件ということで押し通した。
だが迎えに来た母親の口から自分の立ち位置が詳らかにされてしまい、
警察署員の冷たい視線にさらされ、恵子は居たたまれない状況に
なってしまった。
庇うどころかよけいなことを警察署で話した母親に内心で腹を立てていた
恵子だったが、そんな恵子に帰る道々母親が放った言葉が痛烈だった。
「あんたが刺されりゃあよかったのに。
桃ちゃん、どうしてあんたのことも刺さなかったんだろう」
「私はたぶん運が良かったのよ。
座ってた場所がさ、水野くんのほうが桃から近かったから。
それと桃は水野くんを刺した後、ナイフを抜かなかったから刺したくても
刺せなかったんだと思うよ、私のこと」
「恵子ぉ~、こんなこといつまでも続けていたらいつかほんとに誰かに
刺されるよ。
普通じゃないよ、あんた。
それほど煩悩に惑わされるんじゃあ、しょうがない……尼寺にでも入るのね」
「冗談、何言ってるのお母さん。
私、適齢期過ぎてるけどまだ30代になったばかりなんだよ」
ああ言えばこう言い、あまり反省の色の見えない娘にほとほと手を焼く
母親なのだった。