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◇新生活
退院した私は母親と娘の待つ実家へと父親の迎えで向った。
私が玄関のドアを開けると三和土で娘が待っていた。
そして孫に続いて出てきましたよという態で母が娘に続いて顔を見せた。
「おかぁしゃぁ~ん」
「奈々子、長い間留守にしてごめんね。
寂しかったよね。
今日からはお母さん、奈々子と一緒だからね」
私は寛ぐ前に奈々子を抱き上げ、抱きしめた。
そして、しばらくの間そうしていた。
健忘症ってすごいなぁ~、こんな愛しい存在まで記憶から消し去って
しまうのだもの。
正直顔を見て思い出せなかったらどうしようなんて思っていたけど
顔を見たら奈々子だと分かって、ほっとした。
娘の顔が記憶から消えていたのは流石になんとも言えない気持ちになった
ものだが、まだ覚束ないものの先生からも一時的なストレスからくる
健忘症だと言われていて……娘の顔を見て思い出せたので少し心に余裕が
できた。
きっと少しずつ、以前の記憶を取り戻せると。
ただできることなら夫だった人を刺した時のことは忘れたままがいいと思う。
だいたいの物は入院中に母親が家から持ち出してくれていた。
両家の両親が召集された日に
『絶対、あなたがご主人と別れて暮らせるようにしてあげるから、大丈夫よ』と
先生が言ってくれた。
だから、実家に帰ることになったのは離婚することが前提であると
私は思っていた。
それで、夫が自宅に戻るまでに自分のものや奈々子のものは全部運び出したいと思い、
母親にそれを伝えた。
「自宅にまだ私のものや奈々子のものが残ってると思うんだけど、
いつ取りに行こうかな?
お父さんやお母さんの都合もあるだろうから、行けそうな日が決まったら
教えて」
「分かった、母さんと相談して良い日を決めるよ。
それとな、離婚のことなんだが……まぁその、いずれそうなるとは
思うがそんなに急かなくてもいいんじゃないかと私たちは思ってるんだよ。
取り敢えず、俊くんと離れて暮らすことだし、後は戸籍の問題だけなんだしね。
俊くんも病み上がりだし」
「そっか、そうだよね。
うん、分かった。
お父さん、お母さん、出戻ることになっちゃって申し訳ありませんが
奈々子共々宜しくお願いします。
なるべく迷惑かけないように頑張るから……」
「しばらくは休養して、後は仕事探さないとね。
奈々子の年齢のこともあるし、来年の3月まではゆっくりして、
それから仕事を探せばいいわよ」
「うん、そうする。奈々子を預ける保育園も探さなきゃ」
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◇深層心理
桃は退院したけれど、その後数回通院することになっていて
退院後12目のこと。
すっかり気持ちも落ち着いてきたものの、どこかすっきりしない問題を
内包していて懐の深い女医の診察を受けている内に胸の中を巣食う
滓のようなものを吐き出したくなった。
「水野さん、血色もいいしご両親や子供さんとの生活で随分気持ちが
安定してきてるんじゃありませんか」
「はい、これも先生のお陰です。ほんとに感謝しています」
「実は私自身、こんなに上手くいくとは思ってなくて。
自分の一喝で両方のご家族の気持ちを覆せるなんてね。
でもきっと、水野さんが起こした行動で皆さんの気持ちの中に変化が
起きて、そんな中での私の一喝があり、うまい具合に作用したのね、
きっと」
「先生、その私の起こした行動についてなんですが……」
「あの日のこと、思い出せたのかしら」
「思い出さない方がいいような気がして、積極的に記憶を辿ったりは
しなかったのですが、徐々に思い出しました」
「それは辛い思いをしたわね」
このように親身になって話を聞いてくれる女医に、桃がこんなことを言う。
「私は夫のことはい言わずもがなのことですが、友達のほうをすごく憎んで
いたはずなんです。なのに、私は恵子を刺すのではなく夫を刺しました。
自分でもあの時の行動がよく分からないのです。
これはどういうことなのでしょう」
「これはあくまでも私の意見なんだけど、桃さんはね、旦那さんのことを
あの瞬間強く憎んだのよ。恵子さんに向ける憎悪など吹き飛ぶくらい激しくね」
「えっ、そうなんですか?
でも私、今でも恵子が憎くてどうしようもないのに」
「あなたが二人に向けている憎しみは同じじゃないのよ、きっと。
旦那さんに向ける憎しみの裏にはまだ好きな気持ちが残っているのだと思うわ。
だから、よけいに憎いの。
憎まずにはいられなかったの」
「止めて! 先生そんなこと言わないで。
嘘よ、そんなこと。
あんな裏切者を私がまだ好いているなんて……止めてー!」
「あなたは好きでいることを止められない気持ちと、憎くてたまらないという
気持ちとの狭間でずっと苦しんできたの。
桃さん、すぐじゃなくてもいいから旦那さんを許すということも考えて
みてほしいの。
あなたの精神、そう、魂に安らぎを取り戻す為にそうすべきだと思う。
あなたの本当の不幸は旦那さんを許せないまま、さりとて嫌いになれなかったこと
……じゃなかった、嫌いになれないことね」
「止めてー、そんな嘘言わないでー」
診察室で椅子に座っていた桃は、そう叫ぶなりすぐ隣に置かれているベッドに突っ伏した。
自分でも気づいていなかったジレンマに苦悩する桃を残し、女医は部屋から
立ち去るのだった。
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