麗は父に会いに会社へ行った。
家は知らなかったので会社で待ち伏せするしかなかったのだ。
元気だったころの母が、それはそれは自慢げにお父さんは佐橋児童衣料の社長さんなのよ、いつか迎えに来てくれて家族三人幸せに暮らすの、と言っていたから。
受付で社長を出せといって出してくれるわけがないのは、中学生でも理解していた。
そうして運転手付の高級車で会社にやってきた父のもとへ麗は駆けた。
「お父さんっ!」
麗の呼び掛けに父は顔を上げた。
「だ、だれだ君は!?」
麗は息を呑んだ。
懐かしい人。いつから会っていなかっただろうか。もう何も期待していない筈だったのに、やっぱり期待していた。
だから、麗は父の拒絶に動けなかった。
「こんな子供知らん、おい警備を呼べ!」
命令された部下は麗を気遣うような、戸惑った顔をしながら、警備員を呼ぼうとした。
父の嘘がわかっていたのだ。
「ふざけんな! この糞親父!!」
それは、麗の喉から出た声ではなかった。
声の主を見ると、驚くほど美しい高校生くらいの女性が立っていた。
黒い髪は艶やかで、目は大きく、唇は紅い。
それに比べて、ずっと切っていない己の髪が目に入った。パサついて、跳ねている。
「あんた廉価ライン作るってなに考えてるわけ!? 私が継ぐまでに会社潰す気!!」
怒りに駆られたその人の目が麗を捉えた。
「この子、誰?」
命令することに慣れた人間、そして周囲も彼女が命令して当然だと受け止めている。
「我々も存じないのですが、……その、あのー」
父の部下が言いづらそうに言葉を濁していると、彼女が麗の前に来た。
「あなた名前は? こいつに何の用?」
「麗です。母が倒れて、その……養育費を払ってほしくて……」
この人は多分、本妻の娘だ。そう思うと申し訳なくて、恥ずかしくて、声が段々小さくなっていく。
「知らん、こんな娘は知らん! 大体、仮に、本当に、万一、娘だとして、証明できるのか? 戸籍にも入れていない!」
慌てて否定する父に、麗はお金を貰うのは無理だろうなと思った。
父の嘘が誰の目にも明らかでも、ここは父の領域で、麗の味方などいない。
「この、屑!!」
それは、麗が言いたかった言葉、したかった事。
半分血の繋がった姉だと思われる人の強烈な回し蹴りが父の脇腹に入り、吹っ飛んだ。
「どこぞやに色々と愛人をこさえてたのは知ってたけれど、子供までいたとはね。しかも養育費を払ってないときた。本当にあきれ果てるほどの屑ね」
麗はあまりのことに目を白黒させた。麗にとって父は偉い人だった。とても偉い人で母はいつも下手に出ていたから、麗にも偉そうで、本当はここに来て頼みごとをするのでさえ緊張する人だった。
なのに、彼女は意図も容易く殴り付けた。
「……すみません」
麗が謝ると再び彼女の視線が戻ってきた。
「自分に罪のないことで謝罪してはいけないわ。己の価値を下げるだけよ。私の妹だというなら顔を上げなさい」
やっぱり、この人は本妻の娘なんだ。
麗は言われるがまま顔を上げ、姉と目を合わせた。
「私は麗音。私もあんたもお婆様に因んだ名前をつけられたみたいね」
「……そう、なんですか」
麗は祖母の名前を知らなかった。それどころか、顔も知らない。
「そうよ、お婆様は麗華。ちょっと前に死んだんだけどね」
麗音と麗華、麗はああそうかと理解した。麗は二人の名前の一部しかない、欠けた存在。
「それは、あの、御愁傷様です」
何を言えばいいかわからずに、取り敢えず、ありきたりなことを伝える。
「あんたの祖母でもあるけれど、まあ別に平気よ。それより、お金がないのね?」
「はい、母が病気になりまして」
恥ずかしい。姉の目には同情も憐憫も嫌悪もなく、事実を確認する言葉。この人はきっと麗に興味がないのだ。
面倒ごとがやってきたと思われているかもしれない。
「わかったわ」
姉はそう言うと呆然としている父を更に一発殴り、スーツの懐に手を入れ、父の財布を取り出した。
「先ずは、取り敢えずこれだけ。後でまた渡すわ」
そう言って、父の財布から札束を取り出し、麗の手の上に置いた。
それは、見たことのない大金だった。
(こんなに持ってるのに一銭も送金してくれなかったんだ)
「えっと……麗音様」
「もっと親しい呼び方をなさい。私、妹が欲しかったのよ」
本当だろうか? 平淡な声だ。全く麗の存在に動じた様子がない。
「お姉様」
「親しくと言った筈よ」
「お姉さん」
「違うわね」
「姉さん」
「それでいいわ」
姉が軽く頷き、薄く微笑んだ。
「あの、私が言うのも何ですが、そんな簡単に信じていいんですか?」
「詐欺師なの?」
「違います。本当にお母さん死にそうで……」
「そう、あんたも大変ね」
姉が溜め息をつき、固唾を飲んで見守っている父の部下にメモ帳とペンを出すよう命令した。
「名前、電話番号、住所、学校名、お母さんの病院、全て書き出しなさい」
「はい」
麗は受け取ったメモ帳に言われた通り書き、姉に渡した。
「悪いようにはしないから、待ってなさい。こいつを片付けたら取りかかるわ」
「ありがとうございます」
麗は状況についていけず、混乱したまま頭を下げて札束を握りしめて会社を出た。
コメント
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姉さん、父親に対して色々とおありのようですね😅