最初に思い出したのは、音だった。
かすかに、遠くで水が満ちていく音。
それは雨でも波でもなく、もっと内側で響く音だった。
――母の腹の中で聞いていた音に似ている、と思った。
目を開けると、天井が曇っていた。
古いアパートの風呂場。薄いタイルの白が、湿気で青ざめている。
蛇口から落ちる水滴が、静かに水面を叩いていた。
わたしはその音を聞きながら、湯船の底に沈んでいく。
息を止めるたび、世界が丸くなる。耳の奥で鼓動が鳴り、それが次第に外界の音を塗りつぶしていく。
ここは、まだ世界になる前の場所だ。
光のない海。名前も言葉もない。
けれど、確かに生きている。
母の胎を出てからずっと、わたしはこの場所を探していたのかもしれない。
外の世界は冷たく、誰もが生きることを正義と呼んだ。
しかし、生きるとは何だろう。
わたしには、それがいつも痛みを伴っていた。
あの子を失ったのは、秋のはじめだった。
窓辺に小さな風鈴を吊るしたまま、わたしは数日間、ほとんど何も食べられなかった。
病院の白い壁が、やけに遠く見えた。
医師の声も、紙に書かれた数字も、現実というよりは遠い夢のようで。
ただ、胸の奥で何かが確かに消えていく感覚だけが、はっきりと残った。
あれから、わたしは夜ごと湯を張るようになった。
ぬるい水に身体を沈め、目を閉じる。
沈黙の中で、自分の呼吸がゆっくりと溶けていく。
母は、わたしを愛していたのだろうか。
あるいは、ただ生かしていただけだったのだろうか。
思い出そうとするたび、記憶の輪郭が波のように崩れる。
幼い日の声、食卓の光、背中に触れた掌。
すべてが曖昧に、しかし確かにわたしを形成していた。
母の手の中で育った痛みが、
わたしの中でひとつの命をかたちづくり、
そして消えた。
――わたしは、誰の中で生まれ、誰の中で死ぬのだろう。
水面の下で目を開ける。
湯気に溶けた世界が、歪んだ光の粒になって漂っている。
その光は、かつて胎の中で見たものに似ていた。
どこまでも柔らかく、どこまでも閉じた世界。
わたしは手を伸ばす。
指先が、光を掴もうとする。
けれど、何も触れられない。
やがて空気が尽き、胸が焼ける。
息を吸いたいという衝動が、波のように押し寄せる。
それでも、わたしは抗わなかった。
この痛みの向こうに、もう一度“始まり”があるような気がしたのだ。
沈む。
ゆっくりと。
鼓動が遠のき、意識が薄れていく。
それでも水は、やさしく包んでくれる。
ここでは誰も責めない。
生も死も、同じ温度で溶け合っている。
――母さん。
声にならない呼びかけが、泡となって浮かぶ。
その泡が弾ける音を最後に、世界は静寂に閉ざされた。
深い闇の中で、わたしはようやく理解した。
子宮とは、終わりではなく、帰る場所なのだと。
生まれた意味を探し続けていたわたしは、
今ようやく、その内側へ還っていく。
水の底は、温かかった。
音も、光も、痛みもない。
ただ、穏やかな拍動だけが響いていた。
――やっと帰れた。
そう思ったとき、すべての境界が溶け、
わたしは水とひとつになった。
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