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「……っ気付けなくてごめんなさい。私はあまりにも鈍感すぎた。……お兄ちゃんが何を考えていたか知ろうともしなかったし、自分が一番可哀想だと思い込んでた。……っ、違う。お兄ちゃんの事が可哀想って言いたいんじゃなくて……っ」
必死に伝えようとした時、冬夜は春佳の腕を引いて抱き締めてきた。
兄の力強い腕を感じ、春佳はドキッと胸を高鳴らせる。
――大人の男の人になってる。
こんな時なのに、兄へのときめきが止まらない。
「……っ、ごめんな。俺なんかが、兄貴でごめんな……っ。お前は綺麗で可愛い子なのに、たった一人の兄貴がこんな奴でごめんな……っ」
二十六歳の兄が、声を震わせて謝る。
今まで聞いた事のない悲愴な声を耳にし、春佳は兄の背中に回した手に力を込め、彼をかき抱いた。
「謝らなくていいの……っ! お兄ちゃんが謝る事なんて、何一つない……っ! 悪いのは……っ」
そのあと、「お父さんなの」と言えなかった。
この期に及んで、春佳は父を悪者にできなかった。
生まれた時から悪い人なんていないし、父にも事情があったに決まっている。
けれど、冬夜が受けた心と体の傷を、「仕方ない」なんて言葉で済ませたくない。
幼い頃から刻まれた心の傷を、なかった事になんてできない。
冬夜が味わった憎しみも恨みも怒りも悲しみも、信じていた父親に裏切られた絶望も、せめて自分だけは受け止めないといけない。
「畜生……っ!」
冬夜は吠えるように叫び、力一杯妹を抱き締めて嗚咽した。
春佳は気が遠くなるほどの痛みを抱えてきた兄を、抱き締めるしかできない。
兄は傷付きながらも進み、生きる事を諦めず、その心に憎悪を抱きながらも妹に無償の愛を注ぎ続けた。
今ここに彼がいる事が、地獄を生き抜いてきた証拠だ。
冬夜は果てしない絶望を抱きながらも、妹という一筋の光に縋り、足を引きずって進んだ。
そしてようやく彼は、最愛の妹の腕の中で、秘め続けてきた悲しみを解放する事ができたのだ。
「ずっと一人で我慢していて、つらかったよね」
涙で崩れた声で言うと、冬夜の嗚咽が激しくなる。
春佳は子供のように泣く彼を抱き締め、祈りにも似た想いを感じる。
――あぁ。私は透明でとても尊いものを抱いている。
滂沱の涙を流した春佳は、腕の中で震える兄に頬を寄せる。
傷付いた冬夜の長くつらい旅は、ここで終わり迎えたのだ。
「もう、一人で苦しまなくていいよ。私が半分、お兄ちゃんの荷物を背負うから」
春佳は涙を零して笑い、慈愛の籠もった表情を浮かべて兄の背中をさすった。
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「おかえり」
十三歳の時、家を出ていく兄を見送ったあと、いつ彼に「おかえり」を言えるのだろうと考えていた。
けれど今こそ、そう言うべきだと感じた。
「私はここにいるよ。ずっと側にいるから」
春佳は素直に涙を流す冬夜に愛しさを感じ、安心させるように言う。
「……あとね、私、お父さんに乱暴された事なんて一度もない」
そう言った途端、冬夜はガバッと顔を上げ、瞠目して見つめてくる。
「……本当か?」
震える声で尋ねられ、春佳はしっかり頷く。
「こんな事で嘘をつかないよ。私は……、その。…………まだ、処女です」
ボソッと呟くと、兄は涙を流したまま呆けた顔をする。
「……良かった……」
呆然として言ったものの、二人の胸には疑問が残る。
「……じゃあ、なんであいつはあんな嘘をついたんだ? わざと俺を煽って、憎ませて……。殺されたかったならともかく、自分で飛び降りた……」
「私も思ってた」
しばし兄妹は手を取り合ったまま考え、同じ結論を出す。
「……お母さんなら何か知ってるかも」
「……かもしれないな」
頷き合ったあと、冬夜は決意したように提案した。
「これから行けるか?」
「すぐ準備する」
残された謎を解き明かすため、兄妹はすみやかに出かける支度をし、涼子が入院している病院へ向かった。
**
面会室の個室に現れた涼子は、家にいた時より落ち着いているようだった。
慣れない環境で生活して疲弊しているものの、きちんと薬を飲み、決まった時間に寝て、少しずつ快方に向かっているように思える。
「……同室のババアのいびきがうるさいのよ」
脚を組んで座った涼子は、開口一番そう言って溜め息をついた。
「……何の用?」
鬱陶しそうに尋ねられ、冬夜は切りだした。
「親父の事、教えてくれ。前に『何一つ分かっていない』って言ったじゃないか。春佳と二人で過去の話を繋ぎ合わせていったら、どうしても納得できない所が出てきた」
前置きをしたあと、冬夜は母が取り乱さないか注意を払いながら、言葉をぼかしつつ今までの事を語った。
すべてを聞いた涼子はしばらく黙っていたが、再び溜め息をついて髪を掻き上げた。
「……私と庸一さんは、同じ高校の先輩後輩だったのよ」
彼女はテーブルに視線を落としたまま、言葉を続ける。
「一年と三年だったけど、二人とも図書委員だった。図書室で過ごしている時に好きな本の話をして盛り上がったわ。運命の女神が私に微笑んでいたなら、そのまま私が庸一さんと結ばれるはずだった。……でも、彼には女神のように崇拝している女が別にいた」
まったく知らなかった父の過去が語られ、兄妹は真剣な表情で聞き入った。
「北條優那。庸一さんと同じ三年生で、綺麗なロングヘアの美人だったわ。……春佳みたいにね」
母にチラッと視線を向けられた春佳は、居心地が悪くなって視線を逸らす。
母はその女性に良くない感情を抱いているようで、もしかしたら自分が母に嫌われていた一因は、ロングヘアにあったのかもしれない。
「庸一さんについて知りたいなら、私が話すより遺書を見たほうが早いんじゃない?」
「他にも遺書があったのか!?」
ギクッとした冬夜が尋ねると、涼子は溜め息をついて立ちあがった。
「待ってなさい。今持ってくるわ」
そう言って彼女は面会室から出て、ほどなくして茶封筒を手に戻ってきた。
「これが庸一さんの本当の遺書。ドレッサーの引き出しに入っていたから、冬夜は気づかなかったでしょ」
意味ありげに言われ、冬夜は気まずそうに視線を逸らす。
「……安心しなさい。『息子に殺されるかもしれない』なんて書いてないわ」
確信を突かれ、冬夜は溜め息をつく。
そのあと彼はおずおずとテーブルの上に置かれた分厚い封筒を手に取り、中から便箋を出すと、静かに深呼吸してから庸一の遺書を読み始めた。
春佳もまた、遺書を横から覗き込んで父の想いを辿った。
**
コメント
1件
**はる。だわ。** 第31話、読了したわ。冬夜がようやく春佳の腕の中で泣けたシーン、胸が詰まった……「おかえり」の一言に長い年月と想いが全部詰まってて、やっと帰れる場所を見つけたんだなって思った。そして母・涼子の登場と、父の本当の遺書。ここからさらに謎が深まる感じ、続きが気になって仕方ない🔥 兄妹の絆が温かくて、でも父の真実はまだ見えない。この絶妙なバランス、好きだわ。