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「……あ」
自然に漏れた声はあまりに間抜けだった。
その声に反して、ぐるりと回った視界と嫌な浮遊感に、地面に叩きつけられることは避けられないことを悟る。
(コレ労災効く?!)
固く目を瞑りながら、至極現実的なことを思った。けれども───
「危ないっ」
切迫した男の声が耳朶に響いたと同時に、全身に痺れるような強い衝撃を受けた。
その後、いくら待っても痛みはやってこない。足は、なぜかブラブラしている。
少し間を置いて、気付いた。どうやら自分は、地面に叩きつけられる直前に、誰かに抱き止められたということを。
「間一髪だったね」
アネモネの窮地を救ったその人は、男性独特の低く柔らかい声音でそう言った。
引き寄せられるようにアネモネはそっと目を開ける。
そうすれば20代中程の青年が、アネモネを見下ろしていた。
「……あ、あの」
「間に合ってよかったよ」
戸惑うアネモネを抱きかかえたまま微笑む青年は、相手に得も言われぬ安心感を持たせる容姿だった。
ぬくもりを感じさせる茶褐色の瞳は、ポカンとした表情を浮かべている自分を映し出している。高山植物のような緑紫色の髪は短く整えられ清潔感があった。
(……柔らかそう。触ってみたいな)
そんな場違いなことをアネモネは思ったが、すぐに打ち消した。
気持ちを整える為に深呼吸をしたら、今度は自然と青年の服装が視界に入った。
渋みのあるミントグリーン色の襟の詰まった服だった。肩の片側だけマントを掛けていて、胸の位置には、ブルファ邸の玄関ホールに掲げられていた紋章の刺繍がある。
目線を下に落とすと、腰には剣が差してあった。
(ああ、この人は騎士なんだ)
家紋が入った制服を着ているということは、王宮騎士ではなく、個別に契約を結んだ専属の護衛騎士なのだろう。
青年は無駄に装飾の多い騎士服を纏っているが、着られている感は全く無い。つまり、これを着こなすことができるほどの優男だ。
好みは千差万別ではあるが、アニスよりよっぽどこっちの青年の方がいい男だと、アネモネは評価した。落下した自分を受け止めてくれたということを差し引いても。
そんなふうに分析していたら、当たり前のように騎士と目が合った。
「木登りは初めてかい?」
「あ、いいえ」
あまりに自然な口調で問われ、躊躇なく答えてしまった。
言い終えてから、はっと両手で口を覆ったアネモネに、騎士は視線を落としてくすりと笑う。
「この木は猿滑さるすべりの木というんだ。木登りが得意な猿でも、この木の皮はつるつるしているから、滑ってしまうってこと。だから木登りの経験者でも、これを登るのはちょっと難しいんだよ」
「あ……そう……そうなんですか」
生きていくのに何の役にも立たない豆知識を披露してくれた騎士に、ついつい微妙な顔をしてしまう。
つまみ出された不審者が、その屋敷の木に登っていたのだ。これは警護団に突き出されてもおかしくない。
なのにこの騎士、壊れ物を扱うかのごとく、アネモネを地面に下ろした。しかも、もう一度怪我はないかと聞いてくる始末。はっきり言って薄気味悪い。
アネモネは、寒くもないのに二の腕を擦ってしまう。
「やっぱり、どこか痛いところがあるのかな?」
「いいえ」
的外れなことを聞いてくる騎士に、アネモネは素っ気なく答えた。
けれども善人騎士は、気を悪くする素振りも、説教を始める気配もなく、「良かった」と言って笑みを深くした。
(なんだか、お日様みたいな人だな)
アネモネがそう思ったと同時に、柔らかな風が二人の間を吹き抜ける。
どこからか、スズランの清潔な香りが漂う。それは、彼に良く合う香りだった。
これが二人の出会い。
泡沫のような恋の始まり。