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しらすのお部屋
翌朝。病室。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
永夢はベッドの上で、ゆっくり体を起こした。
少しだけ、体が重い。
まだ治療は始まっていない。
それでも、どこか力が入りにくい感覚があった。
「……」
自分の手を見る。
震えはない。
だが、指先の色が少し白い。
永夢は小さく息を吐いた。
昨夜、飛彩が言っていた数値が頭に浮かぶ。
医者だから分かる。
自分の体が、もう正常じゃないことを。
ーコンコン
ドアが軽くノックされた。
「入るぞ」
飛彩だった。
その後ろから、貴利矢も顔を出す。
「おはよ、エム」
永夢は小さく頭を下げた。
「おはようございます」
飛彩はベッド横に立つ。
腕には点滴スタンド。
透明な薬液の入ったバッグが揺れている。
「予定通り、今日から化学療法を開始する」
永夢は静かに頷いた。
「……はい」
貴利矢がベッド柵に寄りかかる。
「初回はそこまで強い薬じゃないけどさ」
「副作用は出ると思うぞ」
永夢は苦笑する。
「吐き気、倦怠感、脱毛……ですよね」
貴利矢が少し目を丸くする。
「さすがだな」
飛彩は無言で点滴の準備をしていた。
チューブを確認し、ルートを整える。
そして、永夢の腕を取る。
「……始めるぞ」
静かな声だった。
針がゆっくりと入る。
冷たい感覚が腕を伝う。
点滴のクランプが開かれた。
透明な薬液が、ゆっくりと体内へ落ちていく。
ポタ……
ポタ……
永夢はそれを見つめた。
(これが、抗がん剤か)
胸の奥で、小さく息を吐く。
飛彩が言った。
「体調に変化があればすぐ言え」
「我慢するな」
永夢は頷く。
「はい」
貴利矢が軽く笑う。
「エムは我慢しそうだからなぁ」
永夢は少し困ったように笑った。
だが――
その数分後。
胸の奥が、わずかにざわついた。
永夢の呼吸が、少しだけ浅くなる。
「……っ」
飛彩の目が動く。
「どうした」
永夢は小さく首を振る。
「いえ……」
少しだけ息を整える。
「……大丈夫です」
だが、モニターの心拍は。
ほんのわずかに、速くなっていた。
数時間後。
病室。
昼の光がカーテン越しに差し込んでいる。
点滴は、まだ静かに落ち続けていた。
ポタ……
ポタ……
ベッドの上で、永夢は静かに目を閉じていた。
呼吸が、少し浅い。
胸の奥が重い。
体の芯が、じんわりとだるい。
(……きた)
永夢はゆっくり息を吐く。
抗がん剤の副作用。
吐き気。
倦怠感。
頭の奥がぼんやりして、胃のあたりがじわじわと気持ち悪い。
永夢はゆっくり体を起こした。
「……っ」
その瞬間。
胃が強く波打つ。
「……っ、う……」
思わず口元を押さえる。
ぐっと飲み込む。
呼吸を整える。
(大丈夫……)
(まだ、我慢できる)
医者として何度も見てきた症状。
だからこそ分かる。
これはまだ、軽い方だ。
永夢はベッドの柵に手をかけた。
だが――
視界が少し揺れる。
「……あれ」
力が入りにくい。
体が、思ったより重い。
そのとき。
モニターの音が少しだけ速くなる。
ピッ、ピッ、ピッ……
永夢はゆっくり呼吸する。
「……大丈夫……」
小さく呟く。
だが次の瞬間。
胃の奥が強くひっくり返った。
「……っ、う……!」
永夢は慌ててベッド横のバケツを引き寄せる。
「……っ、げほ……っ」
吐き気が一気に込み上げた。
体が前に折れる。
肩が小さく震える。
しばらくして。
永夢は荒い呼吸のまま、バケツに手をついた。
「……は……っ」
胸が苦しい。
呼吸が少し速い。
額にうっすら汗が滲む。
永夢は目を閉じた。
(……こんなに早く)
経験上、分かってしまう。
初回にしては。
少し――
副作用が強い。
そのとき。
胸の奥で。
ドクン。
鼓動が、一度だけ大きく跳ねた。
永夢の眉がわずかに寄る。
「……?」
だがその違和感は、すぐに消えた。
永夢は小さく息を吐く。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
「これくらい……」
だがその声は、少しだけ弱かった。
コンコン。
軽いノックの音。
「エムー、生きてるかー?」
貴利矢の声だった。
ドアが開く。
飛彩も一緒だ。
永夢は慌てて姿勢を整える。
バケツをそっと足元に寄せた。
「……大丈夫です」
少しだけ掠れた声。
貴利矢がベッドに近づく。
「顔色悪いじゃん」
永夢は小さく笑う。
「副作用です」
「想定内ですよ」
貴利矢が腕を組む。
「へぇー」
「さすが、冷静だねぇ」
その横で。
飛彩は黙ってモニターを見ていた。
心拍。
呼吸数。
血圧。
視線が、ゆっくり永夢に移る。
「……吐いたな」
永夢の動きが一瞬止まる。
貴利矢が「え?」と振り向く。
飛彩は無表情のまま言う。
「バケツ」
永夢の足元。
そこにある。
貴利矢が覗き込んだ。
「あー……」
「エム」
永夢は少し困ったように笑う。
「……すみません」
「呼ぶほどじゃないと思って」
貴利矢が肩をすくめる。
「患者が医者やるのやめな?」
飛彩は腕を組む。
「吐き気はどの程度だ」
永夢は少し考える。
「……中等度、くらいです」
「まだ我慢できます」
飛彩の眉がわずかに寄る。
「“我慢できる”は評価にならない」
「症状を言え」
永夢は少し視線を落とす。
「……吐き気と」
「倦怠感」
「あと、少し……胸が苦しいです」
貴利矢が眉を上げる。
「胸?」
飛彩の視線が鋭くなる。
「いつからだ」
「さっき……少しだけ」
飛彩はモニターをもう一度見る。
そして静かに言った。
「心拍が少し高い」
貴利矢が肩をすくめる。
「吐いた直後なら普通じゃね?」
飛彩は答えない。
ただ永夢を見ている。
永夢は少しだけ笑った。
「……大丈夫です」
その瞬間。
胸の奥が――
ドクン。
大きく脈打った。
永夢の呼吸がわずかに乱れる。
「……っ」
飛彩の目が動く。
「どうした?」
モニターの音が少し速くなった。
ーピッ..ピッ..ピッ……
永夢は胸を押さえたまま、小さく息を吸った。
「……っ、は…」
モニターの心拍が少し速くなる。
ーピッ、ピッ、ピッ……
貴利矢が姿勢を起こす。
「おいエム、大丈夫か?」
永夢はゆっくり呼吸を整える。
一度。
二度。
胸の奥のざわつきが、少しずつ落ち着いていく。
やがて――
心拍がゆっくり元のリズムに戻った。
ーピッ……ピッ……
飛彩はモニターを見たまま言う。
「……落ち着いたか」
永夢は小さく頷いた。
「……はい」
少し息を整える。
「一瞬だけ、胸が苦しくなっただけです」
貴利矢が眉をひそめる。
「抗がん剤の副作用か?」
飛彩は腕を組む。
「可能性はある」
短く言う。
「初回投与だ。体が反応している」
永夢は苦笑した。
「……医者としては、教科書通りですね」
貴利矢が肩をすくめる。
「患者としては笑えないけどな」
永夢は小さく息を吐いた。
まだ少し体はだるい。
胃の奥の気持ち悪さも完全には消えていない。
それでも――
さっきの苦しさは、もうない。
「……大丈夫です」
永夢が言う。
「続けてください」
飛彩はしばらく永夢を見ていた。
そして短く答える。
「無理はするな」
貴利矢が軽く笑う。
「エムにそれ言ってもなぁ」
永夢は少し困ったように笑った。
病室には、また静かなモニター音が戻る。
だが――
誰にも気づかれないまま。
永夢の胸の奥で。
何かが、静かに脈打っていた。