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莉久⚁⚄[低浮上]
33
#ご本人様には関係❌
第3話 卒業の日
空白は、一つだけだった。
人型化準備区域での最終確認記録。
生活動作、公共区域での規則、由来反応が強く出た際の自己申告と退避。触れたい時には相手へ尋ね、拒否された時には自分の意思で止まり、距離を取れること。
戦闘任務へ進むための基礎訓練も含め、必要な項目にはすべて修了の印がついている。
今日まで熊を見てきた複数の職員が、それぞれの立場から確認した結果だった。
卒業は、龍清一人の判断で決まるものではない。
まして、龍清との間に交わした約束への褒美でもなかった。
熊がこれから誰かの指示を待たず、自分で考え、人型社会の中を生きていけると認められた結果だった。
熊は、自分が積み重ねてきた印を黙って見つめた。
半年前なら、規則の意味までは考えなかった。
言われたから守る。
止まれと言われたから止まる。
それだけだった。
今は違う。
自分が触れたいと思うのと同じように、相手にも触れられたくない時がある。
自分の欲求を伝える権利があるのと同じように、相手にも断る権利がある。
そのどちらも守るために、言葉が必要なのだと知っている。
理解して、自分で選べるようになった。
だから、ここを出る。
「……全部、埋まったな」
向かいに座る龍清が、記録板を上から順に確認していく。
いつもと変わらない声だった。
熊も表情を変えなかった。
だが、胸の内では今日の日付を何度も確かめていた。
半年前、龍清と約束を交わした日。
あの日から、ちょうど半年が経っている。
忘れた日は一日もない。
卒業まで、職員と利用者。
無理矢理触らない。
半年後も同じ気持ちなら、その時に改めて伝える。
龍清の小指が自分の指へ絡んだ感触まで、今もはっきり覚えている。
「生活区域への移行手続きも済んでる。任務配属前の待機期間については、昨日説明されたとおりだ」
「ああ」
「入域札は、ここを出る時に返却。私物の移動も終わってるな?」
「終わっている」
「なら――」
龍清の指が止まった。
記録板の一番上。
ほかの項目から離れた場所に、何も書かれていない欄がある。
「名前、まだ決めてなかったのか」
「決めていない」
「お前なぁ……」
龍清が顔を上げる。
「ほかを全部済ませて、なんで一番上だけ空白なんだよ。修了記録へ載せる名が要るだろ」
「熊で通じる」
「区域内じゃな。外へ出たら、熊由来なんていくらでもいるぞ」
「その時は、ほかの熊と見分ければいい」
「どうやってだよ」
「俺が一番大きい」
「もっと大きい奴がいたら?」
「そいつより強くなる」
「そういう問題じゃないんだよなぁ……」
龍清は額へ手を当てた。
熊は少し考えてから、目の前の男をまっすぐ見る。
「お前に考えてほしい」
龍清の手が止まった。
「……は?」
「俺の名前を、お前に考えてほしい」
「……ちょっと待て待て、熊さんよ」
龍清が記録板を机へ置く。
「卒業当日に、随分でかい仕事を持ってきたな。そういう大事なことは、もう少し早く相談するもんじゃないのか?」
「今、相談している」
「遅いって言ってるんだよ」
「考えてくれないのか」
「そうは言ってない」
龍清は一度答えてから、困ったように頭を掻いた。
「でも、俺が勝手に決めることじゃない。お前の名前だぞ」
「分かっている」
「本当に分かってるか?」
「決めるのは俺だ」
熊は迷わず答えた。
「お前は、俺に似合うと思う名を教えてくれ」
龍清が目を瞬く。
「聞いたあとで、俺が決める」
「……なるほど」
龍清はしばらく熊の顔を見つめ、それから小さく笑った。
「その辺りは、ちゃんと分かってるんだな」
「ああ」
「なら、少し考える」
龍清は椅子の背へ身体を預けた。
腕を組み、熊を上から下まで眺める。
「大きい」
「ああ」
「力も強い」
「ああ」
「物騒な顔をしてる」
「それは関係あるのか」
「名を考えるために見てるんだから、黙ってろ」
「分かった」
熊は言われたとおり黙った。
龍清は再び考え込む。
初めて会った頃の熊は、人型の身体に宿った力を持て余していた。
強い刺激を受ければ、由来反応が先に出る。欲しいと思えば、それをどのように言葉へすればいいのか分からず、身体が動いた。
半年前には、龍清の腕を掴み、寝台へ引き倒した。
それでも。
龍清が離れろと言えば、熱に抗って身体を退けた。
一度だけと言われれば、一度で止まった。
卒業まで待てと言われれば、本当に半年待った。
熊の強さは、大きな身体にも、戦うための力にもある。
だが、龍清が見てきた一番の強さは、それではなかった。
自分の欲求より、相手の言葉を選べること。
一度交わした約束を違えないこと。
決めたことから逃げず、必要な時間を待ち続けられること。
「……そうだな」
龍清が、ようやく口を開いた。
「お前の場合、ただ強そうな名をつけても仕方ないよな」
「なぜだ」
「見れば強いって分かるからだよ。わざわざ名前で言い直す必要はない」
龍清は少しだけ姿勢を正した。
「俺が思う、お前の一番強いところは別にある」
「何だ」
「止まれと言われた時に、自分で止まれるところだ」
熊は黙って、その言葉を聞いた。
「一度決めたことを投げ出さない。約束したことは守る。待てと言われたら、待つべき時までちゃんと待てる」
龍清の目元が、わずかに緩む。
「簡単そうに見えて、なかなかできないことだぞ」
熊は答えなかった。
答える代わりに、龍清から目を逸らさずに待った。
やがて龍清は、山のように揺るがないことと、約束を守り抜く強さを込めた二文字を口にした。
「――魁篤(かいと)、っていうのはどうだ」
初めて聞く音だった。
けれど、ひどく近く感じた。
区域内で呼ばれてきた「熊」は、自分の由来を示す言葉だった。
誰に呼ばれても、自分のことだとは分かる。
それで困ると思ったことはなかった。
今、龍清が口にしたものは違う。
これから自分が何者として生きていくのか。
その答えを、自分で選ぶための名だった。
龍清から一方的に貼られるものではない。
龍清が自分を見て、考え、差し出した音を、受け取るかどうかは自分で決められる。
熊は胸の中で、その名を繰り返した。
「もう一度、呼んでくれ」
「まだ決めてないだろ」
「決めるために聞く」
「……そういう真っ直ぐな頼み方、ほんと断りづらいんだよなぁ」
龍清が苦笑する。
それでも今度は、熊の目を見て呼んだ。
「魁篤」
一度目よりも、はっきりと聞こえた。
龍清の声で呼ばれたその音へ、身体の奥が応じる。
誰かに従うための名ではない。
自分が振り返りたい声に、振り返るための名だった。
「それにする」
「即決じゃないか」
「俺が決めた」
「まあ、そうだけどな」
「俺の名前だ」
「……ああ。お前の名前だよ」
龍清はそう答えると、記録板の空欄へ二つの文字を書き込んだ。
筆先が最後の線を引き終える。
すべての欄が埋まった。
龍清は書いたばかりの名を確認し、どこか嬉しそうに目を細めた。
「これで本当に全部だな、魁篤」
「ああ」
自分の名を呼ばれ、熊は初めて返事をした。
コメント
1件
ああ〜もう、この話泣ける…😭💕 「止まれと言われた時に、自分で止まれる」って、それが熊さんの一番の強さなんだよね。龍清くん、ちゃんと見てたんだなあ。自分の欲求より相手の言葉を選べるって、本当に簡単そうで難しいことだもん。 「魁篤」って名前、龍清くんが考えたっていうのも尊いし、熊さんが「それにする」って即決したのもいい…「お前に考えてほしい」って頼むところからもうドキドキしたよ。 最後の「自分の名を呼ばれ、熊は初めて返事をした」って一文に全部詰まってる感じがする。もうこれで立派な「魁篤」だね🌸✨