「寒っ……」
控え室のソファに腰を下ろすなり、思わず声を漏らした。外での撮影が終わってようやく戻ってきたのに、この部屋の冷たさときたらどうだ。エアコンはついているはずなのに、効いていないのか、それとも俺の身体が冷え切っているのか。
縮こまりながら、スマホを取り出して何気なく時間を確認する。
兄は今、別のメンバーと撮影中。いつもなら俺たち二人一緒のことが多いけど、今日はたまたま別行動だった。
少しでも暖を取ろうと、膝を抱えて丸まったが、やっぱり寒い。
手先がじんわりと冷たくなってきて、我慢できず控え室を見回す。
椅子に掛けられた黒い上着が目に入ったのはそのときだった。金の刺繍が施された派手なデザイン。一目見ただけで、それが兄のものだと分かる。
「借りても、いいよな……」
薄いパーカーしか着ていない俺には、この分厚そうな上着がまぶしいほど魅力的に見えた。
立ち上がって上着に手を伸ばし、ためらいもなくそっと袖を通す。
瞬間、馴染みのある香りが俺を包み込んだ。兄の香水の匂い。柔らかくて、どこか暖かみのある甘い香りが鼻腔をくすぐる。
自然と心が安らいで、肩の力が抜けていくのが分かる。
「…変なの……」
俺は兄の匂いに包まれたまま、ソファに腰を下ろした。
そのまま背もたれに体を預けて目を閉じると、冷たかった空気が少しずつ温かさを取り戻していくような気がする。
___ぼんやりとした意識の中で、懐かしい記憶が蘇ってきた。
それは俺が小学三年生のころだった。学校で嫌なことがあって、家に帰るなり泣きじゃくった俺を、ひではぎゅっと抱きしめてくれた。何も聞かず、ただ背中をさすりながら。
「大丈夫だよ。しゅーとには俺がいるから」
その時の声が、まるで昨日のことみたいに鮮明に耳に響いてくる。
俺は泣き疲れてそのまま眠ったんだっけ。
兄の匂いと、あの温かさだけが俺の全てを包み込んでくれた。
目蓋が重くなって、完全に意識を手放す前、控え室の扉が微かに開く音がした気がした。
だけど体を動かす気にはなれない。温かさと安心感に包まれたまま、俺はそのまま夢の中に落ちていく。
暖かさに包まれる心地よさと、兄の匂いだけが俺を満たしていた。
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撮影が終わって控え室に戻ってきたとき、一瞬足を止めた。
夕方の光が室内を照らす中、無防備な姿でソファで寝ている弟が目に入ったからだ。
「…何してんの、この子は」
小さく笑いながら近づくと、俺の上着をぎゅっと掴んでいる愁斗の手が目に入る。
いつもなら「ひでのはちょっと派手すぎるんだよなー」とか言って敬遠する俺の服を、こうも自然に身にまとっているのが新鮮だった。
肩を包み込むようにしている俺の上着からは、自分でも分かるくらい甘い香りが漂っている。
その匂いが弟を包んでいる光景が、どうしようもなく愛おしかった。
「もりぴ、しゅーとよろしく。俺ら先帰るね」
控え室の扉の方を見ると、史記と聖哉が立っていた。俺は軽く手を振り返す。
「ん、気をつけて帰れよ」
「お疲れ~、森くん」
聖哉が手を振って出て行くと、控え室には俺と弟だけが残された。
静けさが部屋を包む中、俺は再びソファの前にしゃがみ込み、愁斗の寝顔をじっと見つめる。
少し乱れた癖毛、薄く開いた唇、そしていつもより少しだけ幼く見える表情。
スマホを取り出して、気が付けば何枚もシャッターを切っていた。
「こんなレアなの、ちゃんと撮っとかないと損だもんな」
起きる素振りもない愁斗に、思わず笑みがこぼれた。弟のこういう姿を見られるのは家族である俺の特権だ。
それなのに、スマホ越しに見るその顔に、妙な胸の高鳴りを覚える自分がいるのも否定できなかった。
____
写真を撮り終えると、俺はその場に座り込んで未だ熟睡しているそいつの顔を改めて見つめる。
普段はしっかり者として振る舞う弟が、こうして無防備に眠っている姿を見ると、どうしようもなく守りたくなる衝動に駆られる。
「……かわい」
手を伸ばして愁斗の髪を撫でる。その柔らかさと温もりが、冬の冷たさを忘れさせてくれるような気がした。
しかし、それと同時に先程から疼いていた胸の奥の奇妙な熱がこみ上げてくる。
ドクン、と心臓が強く脈打つ音が耳に響いた。
目線の先は自然と愁斗の唇に吸い寄せられる。無意識のうちに、喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。
「……何してんだ、俺」
自分に言い聞かせるように呟く。
弟は弟だ。それ以外の感情なんてあり得ない。そう分かっているはずなのに、心がその言葉を拒絶している。
愁斗が俺の上着をぎゅっと掴み、顔を少し擦り寄せるように動かす。その仕草ひとつひとつが、胸を締め付けた。
「おい、しゅーと……」
力の抜けた声で名前を呼んでも、目を覚まさない。ただ俺の匂いを求めるように上着に顔を埋めて、気持ちよさそうに眠り続ける。
「お願いだから、起きろよしゅーと……」
目を覚まして、いつもみたいに笑ってくれ。
俺の浅ましい気持ちをかき消すように。
2人でふざけ合って、それでまた、いつも通りに__。
ふと、愁斗が小さく唇を動かした。
「……ん……ひで…………」
微かに聞こえた俺の名前に、心臓が大きく跳ねた。
しかし、愁斗の目は閉じたまま。どうやら夢を見ているらしい。
「俺の夢、見てんのかよ」
小さく笑ってみるものの、心の中では嬉しさと焦燥感が交錯する。
この距離感がどうしようもなく歯がゆい。
でも、それを壊したくない自分もいる。
「………..勘弁してくれ」
__愁斗の寝息が、静かな部屋に響く。俺はその音を聞きながら、自分の中の揺れる思いをじっと抱え込んでいた。
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