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朝の教室は、湿った曇り空のような空気に包まれていた。
ざわめきも笑い声もあったはずなのに、遥の耳には届かなかった。
足音を殺すように席に着いた遥は、視線を机に落としたまま、じっと動かない。
視線を上げれば、蓮司がいるのがわかっていた。
その隣には、日下部の姿も。
──見られてる。
背中で感じる熱が、妙に現実味を帯びていた。
「……おはよ」
いつも通りの声が降ってくる。
蓮司の声だった。
変わらない調子で、変わらない笑みで、あたかも昨日のあれこれが“茶番だった”かのように。
「昨日は、びっくりしたよ。……いや、俺、わりとショックだったな」
蓮司は机に片肘をついて、遥の顔をのぞき込むように笑った。
その笑みは、優しさを模倣した毒の器だった。
「殴られるなんて、初めてだったし。けっこう新鮮。
……でもさ、あれって、もしかして──」
そこでわざとらしく言葉を切る。
遥の指先がぴくりと揺れたのを見逃さず、蓮司は肩をすくめてみせた。
「“嫉妬”とかじゃないよね?」
その一言に、遥の呼吸がふっと浅くなった。
「だって、“誰に触れられるか”って、そんなに大事?」
声は小さく、穏やかだった。
だが、それは刃だった。
教室の空気をすっと撫でるようにして、遥の皮膚の内側だけを切り裂いていくような声。
遥は、答えなかった。
答えられなかった。
ただ、机の端をつかむ指に力がこもる。
そのとき──
「……やめろよ、蓮司」
日下部の声が割って入った。
低く、抑えた声。
蓮司は目だけをそちらに向け、微笑を深くする。
「あれ? 俺、なにか悪いこと言った?」
「……」
「それとも、“やましいこと”でもあるの?」
その言葉に、日下部は眉をわずかに寄せただけで、何も返さなかった。
遥は視線を上げなかった。
上げられなかった。
──日下部の顔を見たら、
また、なにかが壊れてしまいそうで。
昨日の夜、枕に顔を埋めて泣いていた自分。
夢の中で血を流していた幼い自分。
そして、“誰かを守ろうとした”ふりをした自分。
全部が嘘に思えて、
全部が、気持ち悪かった。
蓮司の声が、もう一度だけ耳元に落ちる。
「──大丈夫。
俺はさ、“壊す”とか、“守る”とか、どうでもいいんだよ。
ただ、“今の形”が、いちばん美しいと思ってるだけ」
そう言い残して、蓮司は席に戻っていった。
まるで何もなかったように。
その背中を、遥は一度も見なかった。
ただ、日下部の方にだけ、ほんの一瞬──
視線を上げかけて、
けれど途中でやめた。
──ごめん、なんて言えない。
言ったら、また「優しさ」が壊れてしまう気がしたから。