テラーノベル
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教室にチョークの音だけが響いていた。黒板に書かれる数式、教師の声、生徒たちの筆記音。
すべてが、遠くで流れているテレビのようにぼんやりとした輪郭で、遥の耳を通り過ぎていく。
手元のノートの文字が、にじんでいた。
掴みどころのない焦点が、ページの上をさまよっている。
──“誰に触れられるかって、そんなに大事?”
蓮司の言葉が、ふいに耳の奥で再生された。
やわらかく、静かな声。
なのに、それは刃物のように切れ味だけを残していく。
“壊す”とか、“守る”とか。
教室の光が、徐々に白んでいく。
まぶしさのなかで、遥の目は黒板を捉えきれなくなっていた。
思考が、急速に沈んでいく。
遠くで笑い声がした気がした。
──違う。
これは、“今”じゃない。
あのときも、こんな音がしていた。
兄たちが笑っていた。
その隣で、沙耶香が紅茶を飲んでいた。
誰かが、遥の腕を引っ張った。
床に叩きつけられた。
頬が火のように熱くなった。
──なのに、笑っていた。
みんな、笑っていた。
ふ、とチョークが黒板を走る音に意識が戻った。
その瞬間、全身から汗が噴き出した。
喉がひりついていた。
息が詰まりそうだった。
手のひらがじっとりと濡れている。
胸の奥が、押しつぶされるように苦しい。
──ここにいたら、壊れる。
その判断だけが、残っていた。
ガタリ。
静かな教室に響く、椅子を引く音。
周囲が一瞬こちらを見る気配。
教師の声が止まりかけて、すぐにまた動き出す。
遥は、視線を上げなかった。
何も言わずに、教室の扉を開けた。
廊下に出た瞬間、空気が違っていた。
どこかで窓が開いていて、夏の終わりの風がふっと肌をなでた。
歩く。
ただ、歩く。
目的もなく。
逃げ場所なんてないとわかっていながら、教室から出た自分をとにかく前に進ませた。
階段を上がる。
誰にも会いたくない。
声をかけられたくない。
けれど──
──あのままいたら、ほんとうに自分の“中身”が崩れそうだった。
音がしない場所を探すように、遥は校舎の隅へと歩き続けた。
次に足を止めたのは、誰もいない旧図書室だった。
薄暗い部屋。
誰にも使われていない、埃の匂い。
鍵もかかっていないその空間に、遥はふらりと足を踏み入れた。
扉を静かに閉めると、世界の音が一つ減った。
ゆっくりと壁際に腰を下ろす。
膝を抱え、額を押しつける。
目を閉じると、光が消えて──
代わりに、また蓮司の声が聞こえた。
「“今の形”が、いちばん美しいと思ってるだけ」
その“形”とはなんだ。
壊れていく過程を、ただ楽しむことが“美しい”と?
その美のなかに、自分は“壊されるだけのもの”として存在しているのか。
ぐしゃ、と制服の裾を握った。
自分が、自分であることが、気持ち悪かった。
──また泣きそうだった。
けれど、泣くには場所が違った。
“ここは学校”。
泣いてはいけない。
誰にも見られてはいけない。
そう思った瞬間、背筋に冷たい汗がつっと伝った。
──逃げ場所なんて、本当は最初からなかったのに。
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