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『立神信武先生サイン会のお知らせ』
そんな貼り紙が、勤め先書店のあちこちに掲示されたのは日和美が信武に〝女の子の日なんです〟発言をした翌日のことだった。
(信武さんがうちのお店に……?)
そんなこと聞いてないよ?と思いつつ。
でもいつだったか信武が『大体俺、お前んトコの勤め先に近々……』とか口走ったのを思い出してあれはこれのことだったのかも、と思い至った日和美だ。
日和美がポスターの前で呆然と立ち尽くしていたら、これを主催するために奔走したであろう影の立役者・立神信武フリークの多賀谷先輩がやって来て、「あれ? 山中さん。もしかして知らなかった?」と聞いてきたのでコクコクとうなずいた。
「わぁー。灯台下暗し! みんなに告知したつもりでいたけど……新入社員の山中さんには告知漏れしてたんだね。そういえばこれの企画発表したの先月だったわ! ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝られて……いや、悪いのは先輩じゃなくてきっと店長ですよ?と思った日和美だ。
バタバタしていてみんなそこまで気が回らなかったのかも知れない。
何せ今年新卒採用で新入社員として新たにこの『三つ葉書店学園町店』に入社したのは日和美だけだったから。
ついうっかり他部署担当の日和美一人に告知漏れがあったからと言って、大勢に影響はないだろう。
それに、ポスターで告知された日まではまだあと一ヶ月近くある。
どうやら先週発売されたばかりの新刊を買った人に、サイン会に参加する抽選権が与えられるらしい。
「知ってたら昨日、サイン会の権利がある本買ってた?」
なおもポスターを見続けていたからだろう。
多賀谷が心配そうに聞いてくるから。
日和美はキョトンとした。
「ほら、私が別の本を勧めちゃったから。てっきり山中さん、サイン会のこと知ってると思ってたし……新刊はあえて勧めなくても興味があれば自分で買うかなって、つい」
言われて、新刊……とつぶやいて。
対象書籍の題名を見て、日和美は思わず苦笑した。
(信武さんのすっごくエッチそうなタイトルの本、新刊だったんだ)
Webpediaに載っていた『誘いかける蜜口』は割と最近発売されたばかりの本だったのだと知って、何だか妙に驚いてしまった日和美だ。
「ウェブペって情報の更新、すっごく早いんですね」
先日見たWebpediaに、すでに新刊『誘いかける蜜口』のことが詳細に上がっていたことを思い出しながら感心の吐息まじりに言ったら、「あれ、更新したの私なの」と多賀谷がはにかんだ。
「え⁉︎ すごい! 多賀谷先輩、ウェブぺの関係者か何かなんですか⁉︎」
思わずポスターから視線を外してキラキラした目で多賀谷を見つめたら、彼女は「えっ」と口走って驚いた顔をする。
それに日和美が「ん?」と小首を傾げたら、「Webpediaは誰でもいじれるのよ?」と苦笑された。
日和美は多賀谷のセリフに心底驚いて、「嘘……」と声を漏らす。
「あ、あのっ、ウェブペの情報って……そんな簡単に誰でも彼でもいじれちゃうものなんですか!?」
興奮のあまり多賀谷の方へ身を乗り出したら、「……いや、だってあれ。誰でも自由に閲覧・執筆・編集できるっていうのが売りの、ネット上のフリー百科事典だもん。あそこに載ってる情報の編集って、世界中のボランティアたちが好きでしてるんだよ?」とさらりと返された。
「好きで……」
「山中さんだって自分に造詣が深い記事、自由にいじったり新しい項目を追加したり出来るのよ?」
そのままニコッと微笑み掛けられて、普段からウェブペをよく閲覧利用している日和美は大いに驚いた。
今までは見る専門で、自分で何かを発信してみたいだなんて思ったことは一度もなかったから。
「例えば……だけど。好きな作家さんの情報を自分が作っていけるのって、何だか優越感じゃない?」
言われて、確かに!と思った日和美だ。
萌風もふ先生の新刊情報とか、誰よりも早く日和美がウェブペに挙げられたら、最高ではないか。
日和美はちょっと前に「作者の体調不良」を理由にほんの少し発売が延期になってしまった萌風もふ先生初の現代ものになる予定の新刊に想いを馳せた。
(あれの情報、本を読んだら私が一番乗りでウェブペに載せちゃいたい!)
そこまで考えて、そういえば、と思う。
今月は不破(というか信武?)のことでバタバタしていて、まだ萌風もふ先生にファンレターを書けていなかった。
彼女のデビュー当時から、毎月ずっと欠かさず送り続けてきたファンレターだ。
どこかで時間を取って書かなきゃ、と思う。
萌風もふ先生が体調不良とあれば尚更。何か元気になれそうなプレゼントを添えて、ファンの務めを果たさなければ――。
幸い今夜は信武の帰りが遅くなるみたいだし、好都合ではないか。
日和美は、今朝出がけにあった、信武とのやりとりにふわりと思考を飛ばした。
***
朝一で日和美が渡しているのとは別の携帯が鳴って。
信武はそこに届いたらしいメッセージを確認するなり小さく吐息を落とした。
信武がスマートフォンを二台持ちしていることにその連絡で初めて気が付いた日和美が、スマホを手にしたままの信武の手元を見詰めたら、「仕事用の携帯だ。ろくな連絡ねぇし、余り持ちたかねぇんだけど……ずっと放置しとくわけにゃいかねぇし……。家から持ってきたんだよ」と見せてくれる。
そのスマートフォンは、日和美が過日不破のために用意したものよりかなり上位の機種で。
「……私が渡したの、いらないんじゃ」
思わずそう言ってしまったら、ムッとした顔をされた。
「あっちのは日和美専用だ」
言いながらも、「あー、けど……通信費がお前持ちなのは頂けねぇな」とかブツブツ言って来て。
朝のバタバタしている時間だったからその辺はまたおいおい考えようということで適当に話をまとめてキッチンに立った日和美だ。
***
「なぁ唐突で悪ぃんだけど俺、今日からしばらくの間、帰って来んの日和美より遅くなると思うわ」
手にした仕事用のスマホを一瞥して、信武がどことなくバツの悪そうな顔でそんなことを言ってくるから。
日和美は思わず朝食の支度をする手を止めてアイランドキッチン越し。信武の方を見詰めてしまった。
だって余りにも急な話だったから。
「下手したら戻りが深夜とかになっちまうかも知んねぇ」
オマケにそんな風に付け加えてくるから、
(もしかして……仕事にかこつけて避けられてる……?)
そう思ってしまった。
生理中の私に用はないってこと?とかネガティブな思考がグルグルして、日和美は思わずギュッと奥歯を噛みしめずにはいられなくて。
両想いだと分かった日和美に、当然のように迫る気満々だった信武だ。そんな彼に肩透かしのようにくらわせてしまった、女の子の日発言。
何も影響がないわけないではないか。
思えば、過去二人の彼氏らと上手くいかなくなってしまった原因だって、概ねそんな感じだったのだから。
高校生の時の彼氏も、大学生の時の彼氏も、日和美が彼らからのキスを拒んでしまった結果、何となく気まずくなって別れてしまった。
キスに関しては、信武は彼らより数倍上を行く手練れだったから。日和美が拒否する隙も与えず気が付いたら奪われてしまっていたのだけれど――。
さすがに肉体関係についてはそう簡単には許せなくて。
そうこうしているうち、物理的にも本当に一週間無理になってしまったのだから、信武が面白くないと感じていても不思議ではない気がした。
(うー、でも)
昨夜の信武は生理痛に苦しむ日和美にとても優しかったから。
そんな信武が、いま日和美が思い浮かべたような理由で自分のことを避けるのは不自然に思えてしまう。
「えっと……お仕事か何か、ですか?」
今日の業務に支障が出ないよう鎮痛剤を飲みながら聞いたら、信武が「ああ」とうなずいて日和美の頭をやんわり撫でてくれて。ほんの少し肩の力が抜けた日和美だ。