テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
42
鬼霧宗作
橘靖竜
るしゅ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌日の夜。私たちは再び、有沢先生の診察室を訪れた。夜勤明けだという彼女は、目の下に隈を作り、疲れ切った様子でデスクに向かっていた。
「……何か、新しいことが分かったの?」
有沢先生の声は、大事な仲間を失った悲しみに暮れる被害者のそれだった。だが、私の手元にある報告書は、別の真実を指し示している。
「先生、二年前の事件のカルテを精査しました。斉藤は当時、あなたの執刀で小さな腫瘍の切除手術を受けていますね。その際、切除された組織の一部が検査用として保管され、その後、管理簿からは消えている。……手違いで破棄されたことになっていましたが、それを持ち出せたのは、当時の担当医であるあなただけです」
有沢先生の手が、ピクリと止まった。
「……何が言いたいの。私が斉藤の組織を隠し持っていたとでも? それはただのミスよ」
私に代わって前に出たのは、柊さんだった。彼は一歩、また一歩と彼女に近づき、逃げ場を奪うようにデスクに両手を突いた。
「有沢先生。君は今、とても喉が渇いているんじゃないかな。……さっきから何度も唇を舐め、瞳孔が不自然に開いている。医者なら自分の体調くらい分かるだろう。……いや、自覚しているからこそ、それを隠すための薬が必要なんだ」
「……柊さん、何を……」
「二年前、澪さんは君の異常に気づいた。君がストレスから麻薬に手を出し、病院の在庫を誤魔化していることに。……あの日、彼女は君の家を訪ねたんじゃない。君に、自首を勧めにきたんだ」
柊さんの声は、低く、そして逃れられない審判のように響いた。
「君は、地位を捨てたくなかった。だから親友を殺した。……そして、以前からストーカーとしてマークされていた斉藤に罪を擦り付けることを思いついた。自分の頭をわざと打ち付け。注射を打ち、抵抗したふりをして斉藤のDNAを撒いた。……そうすれば、君の体から薬物が出ても、暴漢に打たれたという完璧な証明になる。……今回の被害者である看護師も、君の中毒と盗癖に気づいたんだろう? だから、二年前の亡霊を再び呼び出した。いや、いつかまた同じことが起きたときのために、斉藤の組織や髪をずっと隠し持っていた……違うかい?」
沈黙が、診察室を支配した。有沢先生は、がたがたと震え出し、服の上から無意識に自分のへそを抑え、隠そうとした。その動作こそが、彼女の心にある「嘘」を何よりも雄弁に物語っていた。
「あなたの親御さんはもう亡くなられていますね。でもご実家は田舎の方にまだある。そこに警察が今向かっています。斉藤の遺体はそこですね。二年前の段階であなたのご両親はいなかったのに、退院後、しばらくあなたは仕事を休み実家に戻っていたという証言があります。遺体を隠しに行ってたんですね」
「……澪は、……澪は、勝手だったのよ!」
突然、有沢先生が顔を覆って叫んだ。
「あの子はいつだって正しくて、清らかで……。自首すればやり直せるなんて、そんな綺麗な言葉で、私の積み上げてきたものを壊そうとした! 私は、医者でいたかっただけなのに!」
「……そのために、彼女の命を奪い、二年間も僕を欺き続けたのか」
柊さんの瞳には、激しい怒りよりも、深い絶望の色が混じっていた。信じていた過去、共有していた悲しみ、そのすべてが、一人の女の保身のために捏造された劇だったのだ。
私は、震える彼女の手に手錠をかけた。
その瞬間。
「……柊さん?」
私の声は震えていた。私のホルスターから引き抜かれた拳銃が、真っ直ぐに有沢の眉間を捉えていた。彼はいつの間にか、鮮やかな手つきで、警察用ホルスターの複雑なロックを解除し、私の武器を奪っていたのだ。
「やめて、お願い……!」
手錠をかけられ、床に崩れ落ちた有沢が、喉を鳴らして命乞いをする。その顔は、先ほどまでの聡明な医師の仮面が剥がれ落ち、ただの醜い容疑者のそれへと成り下がっていた。
「……二年間。君が僕に見せたあの涙も、澪の墓前で語ったあの誓いも、すべては君が書いた完璧な台本の一部だったというわけだ。詐欺師の癖にこんな大事なことが見抜けなかったなんて」
柊さんの声は、驚くほど静かだった。だが、その静寂は吹き荒れる吹雪よりも冷たく、銃を握る指先には、今まで見たこともないような暗い殺意が宿っていた。
「君は僕を騙した。拍手ものだよ、有沢先生。でもね、もう終わりだ。……殺人犯、嘘つきにはふさわしい死に場所が必要だろう?」
「……柊さん、銃を返してください」
私は、彼の銃口と有沢の間に、ゆっくりと割って入った。背中に冷たい汗が流れる。
柊さんの指が、ゆっくりと引き金に力を込めていくのが分かった。
「退いてくれ、葵さん。……これは、僕と彼女の個人的な精算だ。君が守るべき正義とは関係のない場所で行われる、ただの後始末だよ」
「いいえ、関係あります。……あなたがここで引き金を引けば、あなたが二年間必死に守り続けてきた澪さんとの思い出まで、ただの人殺しの動機となって汚されてしまう!」
私は、自分でも驚くほど強い口調で言い放った。柊さんの瞳に、微かな動揺が走る。
「……僕はね、もう疲れたんだよ。真実を暴いても、世界が嘘にまみれていることに。……彼女を殺せば、この吐き気がようやく止まる気がするんだ」
「止まりません! ……あなたが彼女を殺しても、澪さんは戻ってこない。……それに、柊さん。あなたが今すべきなのは、有沢への復讐じゃない。あなた澪さんがいたから詐欺師を辞めようとしてたんですよね。それなのにまた犯罪者になる気ですか!」
私の叫びが、夜の診察室にこだました。私は、かつて自分が誘拐犯を殺してしまった時の、あの生暖かい感触を思い出していた。奪ってしまった命は、どんなに正当な理由があっても、一生自分を縛り続ける鎖になる。
彼に、私と同じ地獄を歩ませたくはなかった。
「……あなたは詐欺師で、嘘つきで、最低な男です。でも、……私が見てきたこの数ヶ月の柊渡は、少なくとも、無抵抗な人間を撃ち抜くような腰抜けじゃなかった!」
数秒、だが数分に感じられた沈黙。柊さんは、銃口を向けたまま動かなかった。有沢の荒い呼吸音だけが、部屋の空気を震わせている。
やがて。柊さんは深々と溜息をつき、ふっと力を抜いた。
「……君が僕の計算を狂わせるとはな」
彼は、安全装置をかけ直すと、私の手に拳銃を押し戻した。手のひらから伝わってくる彼の体温は、驚くほど冷え切っていた。
「……葵さん。君の言う通りだ。こんな女のために、彼女との約束を破るわけにいかないな」
彼は一度だけ、床に伏した有沢を、ゴミを見るような冷めた瞳で見下ろした。そこにはもう、怒りも憎しみもなく、ただ救いようのない虚無だけが横たわっていた。
「……後の処理は、君たち警察に任せるよ。……僕は少し、風に当たりたくなった」
柊さんは、私の返事も待たず、翻って診察室を後にした。夜の廊下に響く彼の足音は、いつもより少しだけ、頼りなげに聞こえた気がした。
連行される有沢を他の署員に任せ、私が病院の玄関に駆け出した時、そこにはもう、グレーのコートの影はどこにもなかった。
柊さんの止まっていた時間は、こうして残酷な形で動き出した。だが、その針が刻むこれからの時間が、彼にとって救いになるのか、あるいはさらなる孤独の始まりになるのか。
私は、重くなった腰元の拳銃に手を置き、彼が消えた夜の闇を、いつまでもじっと見つめ続けていた。
柊さんの行方はそれ以来、誰も知らない。