「なるほどねぇ……」
梨都子はふうっと深いため息を吐き出した。
「なんだか背中を押したような感じになってたから、ちょっと責任を感じるわ……」
清水も梨都子の隣で大きく頷く。
「俺も同様だよ」
「そんな、責任なんて……」
「とにかく。そういうことなら、夕べも返事した通りうちは全然構わないわ。それにしても」
梨都子は腕を組んだ。
「その暴力的なことっていうのは、いわゆるDV的な?」
「私にはそう思えます。つい最近には首を絞められて……」
私は自分の首に触れる。
「ここの照明だと分かりにくいけど、ここにはまだ痕が残ってます」
梨都子の綺麗な眉がぎゅっと寄せられた。
「いったいどういう理由で、そんなことされなきゃならないわけ?」
「それは……」
話そうとしたが、声が喉に張り付いた。あの時のことが思い出されて、ぶるっと身震いする。あの日からまだ数日しかたっておらず、痕だけではなく、絞められた時の感触も感覚も、はっきりと残っている。殺されるとまでは思わなかったけれど、あんな経験は初めてだったし、自分がそんなことをされるなんて思ったこともなかった。
私を落ち着かせようとしてか、拓真がそっと手を握ってくれる。
梨都子もまた私の怯えた様子に気づき、慌てて謝る。
「ごめん。思い出したくないことよね。言わなくていいから」
「いえ、大丈夫です……」
私は温んだウーロン茶で唇を湿らせる。
「別れたいということを言ったんです。ずっと嫌だと思っていたことや、愛されてるとは思えなかったってことも、全部。それに自分では隠していたつもりだったけど、拓真君への気持ちは知られていたんだと思う。それで逆上させてしまったんじゃないかと思います……」
梨都子は唸った。
「まさかこれまでも他に何か……。例えば殴られたり、とか」
重ねて訊ねられ、私はためらいながら答えた。
「……殴られたことはないけど、噛まれたりとか」
「噛む?」
意味が分からないというように、梨都子と清水が顔を見合わせた。
私は拓真の手から離れ、彼と目を合わせてから、無言でブラウスの片方の袖を肩までまくり上げた。もしもその話題になった時には、実際に見てもらった方が信じてもらえるだろうと、実は拓真と話し合って決めていたことだった。
私は二の腕を二人に見せた。そこにはまだはっきりと噛み痕がいくつも残っている。少し日が経ったために薄れかけて、ただのあざに見えるものもある。
あまり動じるイメージのない二人だったが、梨都子と清水は明らかに狼狽えていた。すでに目にしている拓真でさえも顔を歪めているが、その痕を初めて見た二人は声をも失っていた。
「こういうのが、体中にあって……」
恥ずかしいのを我慢して、私は小声で言った。
生々しい痕を目にして、ようやく口を開いた清水の声には怒りがにじんでいた。
「……歯型がくっきり残る程ってどんだけだよ」
「まったく、その男、信じられない」
梨都子は声を震わせながら私の腕を撫でた。
「痛かったよね」
私は袖を元に戻しながらこくんと頷き、二人に信じてもらえたことにほっとしていた。
梨都子はキリリと表情を改めると、力強く言った。
「今夜だけと言わず、事態が良くなるまで好きなだけうちにいていいからね。かと言って……」
梨都子が考え込む。
「碧ちゃんの方はもう別れたと言っていても、相手の男は別れるつもりがない、別れたと思っていないなら、安心できないよね」
「厄介だよな」
清水が不快そうに鼻の頭にしわを寄せる。
「そう言えばさ」
と、何かを思い出したように口を開いた。
「ここで梨都子さんと三人で飲んだ日、俺が碧ちゃんをタクシーで部屋まで送って行ったことがあっただろ?ほら、彼氏のことを不審者かもなんて思った日だよ。あの時、街灯の灯りの下ではあったけど、あの人のこと、どこかで見たことがあるって思ったんだよね」
「そうなんですか?」
驚いて目を瞬かせる私に清水は訊ねた。
「彼の前職、何だったか知ってる?」
私は記憶をたどった。
「えぇと、会計事務所だったと思う。なんていう名前の所だったかな……。大江会計事務所、とか言ったかしら。彼、うちの会社に来る前は隣県のS市で働いてたはずです」
すると清水は腕を組み、合点がいったような顔でつぶやいた。
「なるほどね……」
梨都子が身を乗り出し、清水の顔を横から覗き込む。
「史也君、何か知ってるの?」
「知ってるっていうか、前職を聞いて記憶が刺激されたというか。で、今つながったな、と」
「それで?」
梨都子が焦れたように先を促す。
清水は窓の外に目をやると、ゆっくりと話し出した。
「恐らく、当時俺が付き合ってた彼女の友達の、彼氏だった男だと思うんだ。四年くらい前だったかな。一緒に飲んだことがあってね。たいした話もしなかったからだろうな、今まですっかり忘れていたよ」
清水は私たちに視線を戻し、肩をすくめてみせた。
「その時は、彼女のその友達が久しぶりに遊びに来ることになって、彼氏も一緒だからっていうんで、俺もわざわざ連れて行かれたんだ。二人が別れた話を彼女から聞いたのは、その飲み会からしばらくたってからだったと思う」
清水は私に気遣うような目を向ける。
「――別れの理由は束縛だった。それだけじゃない。その男にとって何か気に食わないと思うことがあった時には、彼女に対して色々とひどいことをしていたらしい。細かいことを全部聞いたわけじゃなかったけど、その時印象に残った一つが、行為中に体中を噛んだりするってやつだった」
清水の顔が嫌悪で歪む。梨都子に至っては、もしも本人が目の前にいたら殴りかかっているんじゃないかと思えるほど、物騒な顔をしていた。
「そんなんじゃ、そりゃあ別れたくなるよ。大事にされてるとは到底思えないもんな。その子はその時のことがトラウマになってしまって、一時期は心を病んでしまったそうだよ」
私はごくりと生唾を飲み込んだ。清水の話のその子と自分が重なる。
「その話には続きがある。実は彼女、男の会社の取引先の、お偉いさんの娘さんだったそうでね。娘が心を病んだのはその男が原因だっていうんで親御さんが激怒して、色々あって、結果的に会社に迷惑をかけた形になったらしい。当然居ずらくなるよな。男は会社をやめたって話だった」
清水はそこで話をやめて、手元のグラスに手を伸ばして喉を湿らせた。
今の話が事実なら、太田はその後うちの会社に転職してきたことになる。そのトラブル話がなぜ伝わってこなかったのか気になるが、業界が違うし、他県からの転職だったから、そこまでは情報収集できなかったのかもしれない。
「碧ちゃんが今付き合ってる男は、恐らくその男と同一人物だ」
そう言って清水は真顔で私を見た。
「あの時の俺の感覚は間違ってなかったんだな。とにかく、相手はそういうやつだ。だから別れ話の決着を待たずに離れることを決めたのなら、それは正しい選択だと思うよ」
清水は優しい目を私に向けた。それから今度は拓真に向き直る。
「その男、執着心もなかなか強いみたいですけど、北川さんはこの後のこと、何か考えてます?相手が諦めてくれれば問題ないでしょうけど、どうもそういうタイプには思えないし。碧ちゃんと付き合い出したってだけじゃ、この子のこと守れないでしょ」
拓真は腕を組み、考え深い顔で頷く。
「確かにそれはそうですね。彼女も心配している通り、今の環境では相手に絶対に会わない保証はないですから……。ひとまず部屋は移ろうということで、今回池上さんにお願いすることになったのは対策の一つなんですが、問題は会社ですよね。ただ、今すぐというわけにはいきませんけど、それについては少し考えていることがあるんです。一つ心配なことがあるとすれば、碧ちゃんがうんと言ってくれるかどうか、ですかね」
会社でのこと――?
私は拓真を怪訝な顔で見た。
昨夜は「方法を考えよう」と言ってくれただけだった。その先のことまでは話してくれなかったが、その時にはもう何らかの策を思いついていたのだろうか。
「詳しいことは今聞きませんけど、碧ちゃんって、意外に頑固な所がありますからね。それはその時にでも説得するということで、頑張ってください」
清水は苦笑しつつ言いながら、私を見、それから拓真に向き直った。
「相手があまりにもしつこいようなら、例えばですけど、色々と証拠を揃えれば、警察辺りも動いてくれたりするんじゃないですかね。警察が難しいなら、訴えるって方法はどうだろう。刑事としては無理でも民事として、とか。あとはほら、なんて言いましたかね。ストーカー被害にあった時の、接近禁止令とかいうやつ?なんにせよ、もしもそういう法的なことも考えるのであれば、俺、協力しますよ。必要であれば、さっきの元カノから聞いた話だって証言しますし。それに弁護士の伝手もちょこっとあるんで、必要なら紹介もできますからその時は言ってください」
拓真はやや驚いた顔をしながらも、清水に頭を下げて礼を言った。
「碧ちゃんのために色々と考えて下さってありがとうございます。とても頼もしいです。もしもそうなった場合は、ぜひよろしくお願いします」
「言われなくても、ですよ。俺、碧ちゃんのこと、妹みたいに思ってるんですよ。だからね、この子がそんなことになってたこと、どうしてもっと早く気づけなかったんだって、不甲斐なくて。あの話を聞いた時に違和感があったのに、って後悔してるんですよ」
清水がしみじみと言う傍で、梨都子もまた深々とため息をつく。
「私だってそうよ。碧ちゃんに彼氏ができたってことばかりに目が行っちゃって、全然気づかなかったわ。ここに足が遠のいた時に、あれって思えば良かったのよね……」
しんみりしてしまった二人に、私は慌てる。こんな風に私のことを思ってくれていたのだと嬉しいと思いつつ、他人の私のことで悩ませて申し訳ない気持ちにもなる。
「梨都子さん、清水さん、もう私のことでそんな顔しないで下さい。皆んなのおかげで勇気というか、元気が出ましたし。それにすごく心強いっていうか」
「それならいいんだけど……」
清水と梨都子はようやく表情を和らげた。それから、清水はスペアリブに、梨都子はピザに手を伸ばす。話の途中、池上がそっとテーブルに置いて行ってくれた料理たちだ。
やや冷めてしまっただろうに、梨都子はピザを美味しそうに頬張って味わうようにもぐもぐと口を動かす。ごくんと飲み込んでから、思い出したように言った。
「参考までに聞きたいんだけど、もしもうちで碧ちゃんを泊められないって断ってたら、どうなってたわけ?」
私はちらっと拓真を見てから梨都子に答えた。
「今夜はひとまずその辺のホテルにでも泊まって、この土日でどこかウイークリーを探して、見つかり次第そこに移ろうかなって思ってましたけど」
「え、そうなの?」
驚いたように梨都子に訊ねられて、拓真が苦笑しながら頷いた。
「そうなんです。けじめだから、と」
「けじめねぇ……」
梨都子は小首を傾げて私を見た。
「いずれにしても、もしうちがダメだったら大変だったかもね。だってあんまり遅い時間だと、ホテルを探すのも大変だっただろうし、今日は週末だから部屋なんか埋まってるでしょうね」
「そうなんです。だから、梨都子さんがいいよって言ってくれて、すごく助かったって思ってるんです」
「そうなの?」
梨都子はにこっと笑った。
「それにしても碧ちゃん、北川さんがいてくれて本当によかったわよね。それでね……」
梨都子が申し訳なさそうな顔をする。
「やっぱりうちには泊めてあげられないかな。ごめんね」
「えっ、どうしてですか?『いいよ』って言ってくれたじゃないですか」
梨都子は困ったように笑う。
「だって、やっぱり夫婦水入らずがいいかな、って思ってね」
「そんな……。梨都子さんも言った通り、これから空いてるホテルを見つけられるかどうか……」
おろおろしながら携帯を取り出す私に、梨都子がふふっと笑った。
「だから、北川さんに泊めてもらってね」
私は絶句して梨都子の顔をまじまじと見た。携帯を操作しかけていた指が止まる。
「でも、それはけじめが……」
「けじめも大事だけど、北川さんに頼ったっていいんじゃないの?だって二人は恋人同士なんでしょ?彼、この後のことも色々と考えてくれてるみたいだし。素直に『うん』って言った方が可愛いわよ」
梨都子がにっと笑っている。
「今言った通り私の家には泊めてあげられないし、もちろん史也君のとこも駄目よ。ホテルは恐らく全滅なんじゃないかしら。カプセルとかネカフェなんかは言語道断だし。となると消去法で、北川さんの部屋ということになるわよね。そもそも、どうしてそんなに頑なになっているのかが分からないわ。碧ちゃんには、史也君みたいないい加減さが足りないのねぇ」
「ちょっと、梨都子さん、俺のこといい加減って失礼だな」
「あら、ほんとのことでしょ」
涼しい顔で言い切る梨都子に清水は苦笑してから、私に向き直る。
「事情が事情だし、お互いに目の届くところにいた方が安心できていいんじゃないの?」
私はもごもごと言う。
「それは……まぁ……」
梨都子は目元を緩めながら私を見つめる。
「それで、どうする?」
「どうするって……」
私は諦めて深々と息をはいた。
「だって選択肢、一つしかないじゃないですか」
ちらと拓真に目をやれば、その表情は「自分の所に来てほしい」と言っていた。
「……拓真君、お邪魔してもいいでしょうか」
そう言う私に彼はほっとした顔を見せ、嬉しそうに頷いた。
「もちろんだよ」
「よし。この話はこれで決まりね」
梨都子は私と拓真の間で話が成り立ったことを見て取ると、この件を締めるように両手をパンと打ち鳴らした。
「北川さん、碧ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
梨都子の言葉に拓真は力強く頷いた。
「はい」
その横顔に安心感を覚えながらも、もう一度念を押したくなる。
「本当にいいの?居候させてもらっちゃって……」
拓真は呆れたようにため息をつき、苦笑を浮かべた。
「まだそんなこと言ってる。うちに来ていいって、最初からそう言ってたはずだよ?」
「そうだったけど、やっぱりそこは。いくらつき合い出したって言っても、けじめみたいなものが必要かなって思ったから……」
「碧ちゃんにはやっぱり少し、いい加減さが足りないね」
拓真は冗談めかしてそんなことを言った。
こうして結局、彼の部屋への私の居候が決まってしまった。なんとなくそういう流れに持って行かれてしまった気もするが、かと言ってホテルが見つからなかった場合、やっぱり自分の部屋へ戻って一人でいるというのも心細く恐ろしい。だからもう反論も抵抗もしないことにする。安心した、嬉しいという気持ちを素直に彼に伝えるべく礼を口にした。
「拓真君、ありがとう。当分の間、よろしくお願いします」
「俺こそよろしくね」
梨都子の声が割り込んできた。
「お話中、お邪魔してごめんなさいね」
からかうように言われて私は真っ赤になった。
梨都子はふふっと笑うと私たちの顔を見回した。
「明日、ドライブがてら、みんなで隣県のモールにでも行かない?碧ちゃん、当面必要なものなんかもあるでしょう?買いに行きましょうよ。気晴らしにもなると思うしさ。どう?」
心惹かれる誘いだったが、私は皆んなの表情を伺いながら言った。
「もし私に気を遣って言ってくれているのなら、大丈夫ですよ?第一皆んな忙しいでしょう?それに、わざわざ遠出までしなくても……」
その先の言葉を梨都子は遮る。
「そんなこと言わないで、たまには外で遊ぼうよ。途中で観光っぽいことをしたりね。北川さん、いいでしょ?」
「もちろんです。碧ちゃん、せっかくこう言ってもらってるんだ。気分転換に行ってみない?俺はいくらでも付き合うよ」
「ほら、彼もそう言っているんだから行こうよ。史也君は用事ないよね?」
「確かに別に何もないけどさ……。俺に運転させるつもりでしょ」
苦笑いを浮かべる清水に、梨都子は陽気に笑って答えた。
「あはは、分かった?」
「まあ、いいけど」
「じゃ、そういうことで決まりね!明日、ここの前で十時に待ち合わせってことでいいかな。北川さん、碧ちゃんのこと、よろしくお願いします。何かあったら、いつでも言ってちょうだいね。私の連絡先は碧ちゃんが知ってるから」
梨都子のうきうきした気持ちが伝染したのか、私も翌日の約束が楽しみになってきた。これから拓真の部屋に行くのだという緊張を、しばし忘れることができたのはそのおかげだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!