『あぁ、生まれてくれた……あなたは――が望んで生まれた子』
暗くて寒い。何もない澱んだ闇の中。
その中に差した淡く消えていきそうな一筋の光。温かい声。
『お願い、あの子のそばにいてあげて。――はもう一緒にいてあげることはできないから』
この温かい光は澱んだ闇を遠ざけ、優しく安寧をもたらす闇を受け入れた。
それが私の最初の記憶。
『そうすれば、あなたもきっと――』
当時の私はそれで何かを感じるわけでもなかったし、何かを思うこともなかった。受け取っても受け止めるための器がないような状態。
多分、あらゆる要素が歪に重なり合った結果生まれた私の心は、正しい形を得ることができなかったのだと思う。ある意味、まだ始まってすらいなかった。
あの時、聞こえてきた声はそれきりだったと記憶している。
それ以降、闇の中にいた記憶に残っているのは男の声と時折受ける刺激。
「これも反応がない。自我は確認できないか……だが調整が上手くいっていることは間違いない。定着率が想定に満たないが、魂の欠片が残っていたとはいえ素体が死体同然だったのだ。欠陥品としては十分な成果といえるでしょう」
男の声が遠ざかり、時が流れた。
再び男が現れてから私にはより強い刺激が与えられ、何もない自分の中に何かが刻まれていく。
そんな中で時折、男は狂気を孕ませた声で哂っていた。
「模倣し、溶け込め。そしてその内の力をあの女に育てさせると良い。私の手の上で踊らされているとはつゆ知らず、自らの手で育ててしまった強大な力に成す術なく呑まれることで絶望する様が目に浮かぶ」
その言葉は本能に近い部分に刻まれた。その男にとっての私の役割はそういうことだったんだ。
「いずれお前が真の主の元へと自らの足で戻ってくる時が楽しみですよ、モルモット。その時には私からお前に名を贈ってやりましょう。その時、初めてお前は真実となれる」
――再び男の声が遠ざかっていった時には、私は違う空間にいた。
次の瞬間襲ってくる膨大な情報を私は手当たり次第に受け入れていく。
土、風、熱や視界に映るありとあらゆる景色も私は反射的に処理していった。
「ご、ごめんノド……カ?」
聴覚に刺激があり、視覚でも対象を捉える。
今となっては本当に大切な人だけど、自分というものがなかった当時の私はただ本能に刷り込まれた行動を取るだけだった。
私はすぐに目の前の少女を模倣対象と規定した。周囲の同類たちも同様に。
彼女たちのやり取りを観察し、動作や会話内容から学習していく。
すると少女の視線が私をまっすぐ捉えた。その直後、彼女から私の内側に微弱な刺激を受ける。
それは彼女からの一緒にいたいという想いと――今だからこそ分かることではあるけど――僅かな懐かしさだったと思う。
そう、どこかあの言葉に込められていた想いと似ているような気がする。
「じゃあ、そうだね……あなたの名前は――アンヤだよ」
直後、私と彼女――ますたーの間に繋がりが生まれていた。
あの男が計画した通り、私は彼女たちに付け込むことができたということになる。
でも私を作った存在にとって誤算だったであろうことは、私が私になったことに違いない。
その時からずっと模倣するために外部からの情報は享受し続けていたけど、時折簡単には処理できない情報も紛れ込んでくるようになった。
そして決定的に変わったのは、ますたーのあの言葉からだ。
「決めた、私はこれからアンヤともっと話をする!」
妹だから。これから一緒にいることになるから。理由は様々だったけれど、彼女たちから私への接し方が変わった。積極的に私を気に掛けてくれるようになった。
それを私は一方的に享受し続ける。
「アンヤちゃん……次はこの本を読もうか。『天体の神秘』」
「ねえ、シズ。その子とは随分と距離が近いけど、平気なの?」
「あー……うん。アンヤちゃんは落ち着いてるし、読み聞かせると本に夢中になってくれるから」
「ふーん、シズが緊張しないなんてよっぽどよ。私を除けば一番ね、アンヤ」
シズクの膝の上で本の内容を取り入れようとする私に、彼女たちのやり取りがノイズとなって入り込む。
そして本から2人に対象を移そうとした私に、少々乱暴な衝撃が襲いかかってきた。
それはヒバナの手のひらで撫でられているとすぐに判別できたのに、内側に入り込んできたものまでは判別できず、暫くはその処理に時間を費やしていた。
「いや~! 今日も~アンヤちゃんと~寝る~!」
「そうは言っても今日で7日目だよ? 毎日一緒だとアンヤも疲れちゃわないかな?」
「大丈夫ですよ~、ね~?」
「もう……強引なんだから」
ノドカとますたーのやり取り。
それを眺めていると聴覚を突くような刺激を覚える。
「毎日アンヤばかりズルいよ! ボクだってノドカ姉様と一緒がいい!」
「そうなの~? だったら~ダンゴちゃんも~一緒~!」
「ほんと!? やった!」
視界が揺れたかと思うと、次の瞬間には私の体はダンゴの腕にきつく抱かれていた。
ノドカの嘆く声が聞こえるけど、それを上書きするように視覚と聴覚がダンゴによって支配される。
「アンヤとも一緒に寝てあげるよ。心の広いお姉ちゃんに感謝するように!」
「ぬくぬく~」
そして布団で視界が遮られ、上から別の手も重なってきた。
抱きしめられる外部からの温もり。
内側に生まれたこれも――温もり。
「アンヤ、これも食べてみてください。美味しいと思いますよ」
食事中、コウカがフォークに突き刺した食べ物を私の体の中に突き込んでくる。
そこから食べ物だけを受け取り、消化していく。
「今は無理でも、いつかこんな風に同じものを感じ合えたらいいですね。そしたら、アンヤも立派な人ですよ。もちろん、それは食べること限定じゃありませんけど」
そう言って僅かにコウカは微笑んだ。
――分からなかった。いつも内側に生まれるものが何なのかが理解できないでいた。
そしてそれだけではなく、その時からずっとある認識の差異も生まれ始める。
それは“私”という言葉。その言葉はすごく幅広い意味の言葉らしく、それに気付いてしまった時からその言葉の意味を正しく理解していなかった私は、全く会話の内容を掴み切れないでいた。
当然だ。“私”という言葉は己を指す言葉。でも当時の私には己という認識そのものがなかったのだから。
しかし、そんな空っぽな私の中にも何かが生まれつつあった。
それは彼女たちが度々口にする“アンヤ”という言葉によるもの。みんなが“アンヤ”の名前を呼ぶと共に想いを届けてくれていたおかげで、己という存在を初めて認識できたんだ。
――アンヤ。それは自分がただ一人の自分であるという証明。
その名前を聞けば、ここにいると実感できた。
とはいえ、その時点ではそれだけ。その時のアンヤはまだ自分自身を見つけることができないでいた。
だから“私”という言葉の意味を理解したとしても、自分で何かをすることもできずに他者を模倣することしかできなかった。
決定的な瞬間が訪れたのは突然だった。
その日は冒険者として様々な依頼を受けていて、最後の依頼として受けていたのが行方不明となった飼い猫の捜索。
そこでアンヤは対象の黒猫を見つけて、依頼主の少女に返した。
ますたーの人助けを模倣してみた結果だけど、その時に向けられた依頼主の少女の笑顔と言葉に込められた純真な想いに対して、どうすればいいのか分からなくなって固まってしまった。
なんとなくわかったのは、ここでそれまでに見てきたますたーの言動をそのまま模倣してはいけないということだけ。
だからアンヤは悩んだ。模倣ではなく自分の頭で考えてみた。きっとその時に私はアンヤとなったんだろう。
でも自分で様々な物を見て考えていると次第に分かってくることがあった。
アンヤはどこかみんなとは違う。生まれた時の記憶も、他のみんなと比べたら未熟すぎる心も、彼女たちとの壁を作るには十分すぎた。
霊器“朧月”が良い例だ。自分以外の誰もが認識できない性質。そして自分でさえも見失ってしまいそうな儚い光。自分というものがないアンヤにはぴったり。
それでもこの朧月は形としてそこにあるますたーとの絆だった。だから一瞬たりとも手放したくはなかったし、手入れだって怠らなかった。
きっと自分自身を見つけられた時、この朧月は本当の姿を見せてくれるはずだと信じていた。
――でもやっぱりこんな朧気な光では澱んだ闇を晴らすことはできない。
自分自身の奥深い場所、そこに眠る得体のしれない大きな力。
それがアンヤたちにとって良くないものであることになんとなくではあるが、気が付いていた。
そんな現実から目を逸らすようにアンヤはますたーたちを模倣し続けた。それしかできなかったアンヤはその行為を通して、自分というものを見つけたかった。
今となって考えるとそれは憧れでもあったんだろう。
輝きに照らされた世界で生きるますたーたちへ、そしてアンヤがアンヤとして生きていく道を照らしてくれたことに対しての。
すると次第に真似事で始めたものが別の意味を持ち始めた。
うまく自分の意志を伝えることができず、自分自身の心にすら自信を持てないアンヤにも純粋な感謝の想いを向ける人。
欠陥品であるはずのアンヤの心が揺れ動いているようだった。
今ならすべてわかる。アンヤはその笑顔を向けられることが誇らしかった。誰かの助けになれることが嬉しかった。
命はたった1つの尊いもので、平等に与えられるべきもの。生まれ方すら歪だったアンヤもたしかに生きている。
そんな尊い命を持つ人の未来を少しだけでも照らすことができたのだという事実は、アンヤの心に確かな熱を生み出すのには十分すぎるものだった。
こんな“人”と呼べないようなアンヤでも人の未来を照らすことができる。それがアンヤにとっての光でもあったのは確かだ。
人に寄り添い、支えてあげたいという気持ちも多分この頃から生まれたものだと思う。
そうやって外の世界に触れ、感じて、考えて、行動することを通して自分を模索していたアンヤも、自分ではどうすることもできない現実が迫りつつあることを感じていた。
自分の中にある強大な力の胎動が、アンヤ自身の成長に従ってその大きさを増しているのが手に取るように分かった。
アンヤが思い出していたのは澱んだ闇の中で聞いたあの男の言葉。
その時までアンヤは忘れていた。アンヤはますたーたちを傷つけるために生み出され、彼女たちに溶け込むように調整された存在であることに。
そしてこの内で蠢く力は彼女たちを絶望させるものだということを。
――でもこんなことをみんなに打ち明けることなんてできなかった。打ち明けることでこの居場所をなくしたくはないと思ってしまった。
みんなはきっとアンヤが悪意のある者によって作られた存在だということは知らない。知られてしまえば今までの関係ではいられない、そう思うと怖くなってしまった。
そうこうしているうちにアンヤは1人の邪族と出会った。
氷血帝イゾルダという名の邪族。彼女はアンヤのことを知っているような口ぶりだった。
やっぱりアンヤは人々――ますたーたちが戦っている邪神側の存在だったんだ。
薄々感じてはいたものの、認めたくないと目を逸らし続けていた現実が“運命”として襲い掛かってくる。
「ふぅん、仮初の自我ってところかしら。アイツが調整に失敗するなんて珍しいこともあるわねぇ」
彼女に惹かれるような感覚もアンヤが望んだものじゃない。自分の体のはずなのにお前のものではないと言われているような気がした。
「必死に戦っちゃってまあ。アタシたち、これからお仲間になるっていうのに」
「……仲間、じゃない……っ!」
「アンタがどう思おうとそれがアンタの運命。お分かりいただけて?」
違う、違う、違う。
いくら否定したところで無駄だった。他でもないアンヤの体が現実を突きつけてきていたのだから。
「そんなに救世主とかいう小娘が大切? アンタが本来いるべきはこっちよ。それにどのみち時が満ちれば全部忘れてどうでもよくなるヤツらのことなんて、考えるだけムダなのよね、ムダ」
「ぇ……」
「ぷっ、おバカさんね。当然でしょ? アンタの自我は本来生まれるべきじゃなかったもの。カーオスの話だとその内に眠るあの方の力が覚醒するとともに初めて生まれるそうだから、今あるアンタの意思は望まれずに生まれてしまった紛い物。大方、馴染むことを優先した結果として疑似的な自我が生み出されたってところかしら。そういうわけで、アンタは本来生まれるべき本物じゃなくて、ただの偽物ってことよ」
これまで築いてきたアンヤという存在が崩れ落ちていくような衝撃だった。別に彼女の言葉を鵜吞みにしたわけでもないが違う、とは決して言えなかった。
その頃のまだしっかりと自分を見つめることができなかったアンヤでは、自分が目的の為に疑似的に生み出された存在なのかどうかすら判断することはできなかったのだから。
そして“本物”のアンヤの存在。
この内にある力が解放された時、この今考えているアンヤは消えてなくなりこの体に本来宿るはずの存在がその力を使うことで、嬉々としてますたーたちを絶望させるというのだろうか。
それが運命だとイゾルダは言った。
「あぁら、時間。もう少し楽しんでいたかったけれど……その様子じゃ、何を言っても無駄そうね。それじゃあね、偽物ちゃん。またすぐに会えるわ、次に会う時はきっと“はじめまして”からね」
その戦いでアンヤは見つけかけていた自分というものを再び見失ってしまったんだ。
もうみんなとは一緒にいられないかもしれない。こうして考えている自分が消えるのが怖い。
そしてますたーたちや寄り添ってあげたかった人々を傷つけるだけの存在になり果てるかもしれないのが怖かった。
そんなアンヤを照らしてくれたのはやっぱりみんなだった。
傷つけてしまうかもしれないと遠ざけるアンヤにもみんなは光をくれた。みんなはいつもアンヤのことを見てくれていた。偽物や本物ではない、アンヤとして。
アンヤはみんなと一緒にいたいという気持ちを強く自覚した。
だからもし……もし奇跡のようなものが起きてこのまま何事もなく、救世主としての役目を果たし終えることができたら、みんなに本当のことを打ち明けようと思った。
それでもみんなが受け入れてくれるのだとしたら、アンヤも自分から歩み寄ろうと。そしてますたーが言ってくれたように優しいアンヤとして胸を張って生きていきたいと。
その時は偽物とか本物とか何でもいいとすら思っていたのに――やっぱり運命ということだったのだろう。
「ダメっ!」
巨大なゴーレムが街の中で爆発しようとした時のこと。
このままでは多くの命が失われると思ったアンヤはどうにかしようと無我夢中だった。するとその気持ちに呼応するようにアンヤの中の力が解き放たれかけた。
結果、その力によって爆発を起こそうしていた魔力はすべて消し去られた。
でも街の人の命を救えたと喜ぶことなどできなかった。何故なら解放してはいけないはずの力が、アンヤの中で急激に膨れ上がっていたから。
人々の命を救おうとして、その人々の敵に近づいてしまうなんて皮肉でしかない。
それでもやっぱりみんなに真実を打ち明けることはできなかった。まだ大丈夫かもしれないという希望にすがり続けていた。
――でもやっぱり駄目だった。
ニュンフェハイムで起こった2度目の大きな戦い。その中でアンヤの力は解き放たれてしまった。
黒くて気味の悪い右腕が目の前にいた巨大な一つ目の巨人の魔力を一瞬にして喰らい尽くす。同時にこの力がどういうものなのかを理解した。
蝕――魔素を侵蝕し続ける破滅の力。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。この力は駄目だと抑えつけようとするけど、蝕はアンヤの全てを飲み込もうとしていた。
その力が最初に喰らったのはアンヤとますたーの繋がり。
ますたーから貰ったものが消えていく。最初に名前を失い、次に失いかけたのは朧月だった。
「だめっ!」
蝕の力に呑まれ、ゆっくりと崩れ落ちていく朧月を左手で掴んだ。
既に手の平に収まるほど侵蝕が進んでしまった朧月を握りしめ、蝕の力を抑えにかかる。
それは大切な絆の証と呼べるものだから。もうこれ以上奪わせてはいけない。
形に見えるものすら失ってしまえば、私はきっと全てに絶望してしまうことが直感で分かっていた。
それからは必死になって侵蝕に抗い続けた。きっとこの左手に痛みを感じ続ける限り、アンヤであった頃の記憶は残り続ける。
自分の意思とは関係なく進んでいく蝕の力をどうにか抑えようとすると侵蝕は緩やかなものへと変わった。
同時に“喰らわせろ”という衝動が私自身を蝕んでいくけど、私は歯を食いしばってそれに抗い続けた。
「アンヤ……もしかして進化、できたの?」
抗い続けても、もう全て終わりなのではないか。
「アンヤ……?」
頭の中がいっぱいになっていた私は呼び掛けられていたことに気が付けないでいた。
その声に気が付くことができたのは彼女の声が随分と近くに聞こえた時だった。
「ます、たー……?」
彼女の顔を見ることが怖い。拒絶されるのが怖かった。
でも、それ以上に今の私を照らしてくれるのは彼女たちだけだという気持ちも抱いていたから、恐る恐る私は振り返った。
そして視界にますたーの姿を捉えた瞬間――アンヤの目の前にあったのは黒と赤だった。
「あ――」
呆然と目を見開いたますたーが崩れ落ちる。
目の前の黒は振り抜かれたアンヤの右腕。赤はますたーの血。振り上げられた右腕からは血が滴り落ちてくる。
血を流しながら倒れるますたーを傷つけたのはアンヤだった。
「いや……」
ありえない。こんなことあるわけない。違うのに。こんなの嘘だ。
無情にもますたーへの侵蝕も始まっていた。それだけは本当に駄目だ。このままではますたーが死んでしまう、私がますたーを傷つけて殺してしまう。
そんな恐怖が呪いのように頭の中に絡みついた。
「何を……何をしているんですか、アンヤッ!」
その時、コウカが現れた。平常時であれば彼女に縋りつき、頼りたいと思うはず。
でもこの時だけは違った。彼女の目にはますたーを傷つけた私の姿が映っているのだから。
恐怖に支配された私は全てを否定することを選んだ。
「あ……あぁ……ち、ちがう……違う、違う! アンヤはっ……私は……ッ!」
「アンヤ……?」
まるで非難されているように感じた。
視線を合わせることが怖い。きっと受け入れられはしない。
「待ってください! 待って、アンヤ!」
気付けば、私は彼女と目の前の現実から逃れようと後退っていた。
だから背後に現れた空間魔法の存在に気付いたのは、穴に吸い込んでいくように吹く強風により自分の体が傾き、その穴へ落ちかけている時だった。
「アンヤ! 手を伸ばして!」
私を“アンヤ”と呼ぶコウカの声。
反射的に彼女の顔を見た時、先ほどの非難するような視線なんて私の幻想でしかなかったことに気が付いた。
コウカはこんな姿になって、彼女にとっても大切なはずのますたーを傷つけた私にまっすぐその手を伸ばしてくれていた。
こんなに嬉しいことはなかった。まだ私に手を伸ばしてくれる人がいる。だから今度こそ私も――。
そう思い、腕を伸ばすと赤い血に濡れた黒い右腕が視界に入ってくる。
――その瞬間、私の思考は凍り付き、先ほどの恐怖が一気に舞い戻ってくる。
何も希望などないではないか。視線を移せばコウカの腕に抱かれてぐったりとしているますたーの姿がある。
刹那、脳裏にはますたーを傷つけた時の記憶が何度も再生されていった。
この腕で彼女の手を掴んでしまうと、コウカのことを喰らい殺してしまう。
私は彼女の手を掴むことはできなかった。やがて私の体は深みへと落ちていく。
そして次の瞬間、私の目の前には2人の邪族がいた。
そこで私は絶望に沈んだ。全ては生まれた時から変わることのない運命で、私は偽物。そんな言葉が呪いとなって私を縛り付けた。侵蝕を抑え続けることはできない。
どちらかが消えるしか選択肢はないとも言われた。それしか道がないというのなら、私が私で居るうちに自らの手で死を選ぶべきだと考えていた。
でも私は傲慢で、それでも希望はあるのかもしれないという想いを捨てきれずに“選ばない道”を選んだ。
私がいなくても、ますたーたちはきっと世界を救えるはずだ。この世界に生きる人のためを思うなら私はすぐに消え去る方がいい。
そう頭では分かっていても、私は選べなかった。
――何よりも、私自身の心が……あんなにも温かいみんなのそばを離れたくないと、どうしようもないほどに願ってしまっていたから。
だから苦しく、辛くとも冷たい玉座の上で私はただ堪え続けていた。
いつか澱んだ闇の中から、穏やかな世界へと私を掬い上げてくれる光に焦がれながら――。
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