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「…ねぇ若。あんた、幼なじみのこと覚えてらっしゃいますか?」
「はい?幼なじみ……?あぁ、ええ、ぼんやりと顔だけは…?」
「なんや覚えてんねや…はーあ、忘れてんねやったらこんなんものぅなんのに……」
朝食を取っている菊の対面で、頬杖を着きながら阪は呟いた。心底残念そうに彼が言うので「なぜ?」と聞き返す。少しもご、と口を動かした後、更に嫌そうに顔を歪めて彼は重い口を開いた。
「いやあ、なんや、その…幼なじみが若と同じ学校に通ってらっしゃるんや。やから、登校一緒にしよう、って……頭が突然決めよったんですわ」
「父が?珍しいですね」
「あの車やとカタギには見えへん、やと。途中半端なチンピラやらに因縁付けられて、若が怪我すんのが1番に嫌やって…」
髪を焦れったそうにいじって阪は大きなため息をついた。いつもにこやかに閉じている彼の瞳は、珍しくうっすら開いているように見えた。
「あはは……。たしか、蘭さんでしたっけ?何年生なんですか」
「若の1個上ですよ。どうやら去年入ったようで」
空になった皿を回収し襖の向こうへ送りつつ、興味なんて全くないといった様子で彼は言った。昔から”蘭”のことが気に食わないのか、たしかに彼に対しての当たりは相当強かったように感じる。「ご馳走様でした」と、菊が手を合わせればどこで聞いていたのか、桜の模様の印された着物を身につけた一人のお着きが、襖を開き、現れた。
「ええ、お粗末さまでした」
「あ、京さん」
「若あ、もう行かれはるんですか…?私、心配でたまりませんわ……」
「…ハッ……まず包丁おろせや……………」
「あらあ、なんて言わはったんか聞こえへんかったわぁ。もう1回言って貰えますか?」
彼女の柔らかな物言いとは反対に、京の瞳はゆらりと執念に揺れていた。包丁を持っていない方の手を口元に寄せ、どこか嘲笑うような表情で座っている阪を見下ろす。そんな京を珍しく目を開いた阪が睨みあげる。その二人の間にはバチバチと火花が散っているように見えた。昔からの犬猿の仲なので特に気にすることもなく、菊はその場から立ち上がり広間と廊下を区切る襖を開けた。すっかり言い合いに火がついてしまった2人はそれに気付いたのか、気付いていないのか、どちらにしても彼を追いかけることはしなかった。音をできるだけ立てないようにそっと襖を閉めて小さく息を吐けば、突然左肩に手が置かれる。
「…若、オレらで先に準備しときましょうか。あの坊っちゃんもそろそろ来るころですし」
「……なんだ、東さんでしたか…。おどろきましたよ、もう…」
「はは、臆病ですねえ若は。
…で、荷物は纏めて若の部屋に置いてあります。弁当はこちらに」
テキパキと動く彼はあの京さんの便宜上の夫だった。犬猿の仲の2人と比べれば大概穏やかな関係だが、時々ばちりと大きな火花が散るのが見える。昔は私の方が若に好かれてましたわ……、オレは若と一緒に風呂入ったぜ……、それは性別で……、関係ないだろ……、いつも私関係の言い合いだった気もするが、追求するのは辞めよう。面倒くさくなるだけだ。
東さんの手から弁当箱を受け取り、渡り廊下を進んでいく。しかし、後ろにぴったりと着いて歩く彼の癖は治らないものか…。この敷地内ならば少しくらい気を抜いてもいいのに。自分の部屋に着き、たしかに置いてあったスクールバッグを手に取って玄関へと向かっていく。普段ならまだ家からは出ないが、徒歩となると少し早めに出た方がいいだろう。1度バッグを床に置き、靴を履こうと踵に手をかけた時、呼び鈴が鳴った。
「あ、来たかな。若は靴履いてていいんでどうぞ
…あー、でもどっちかの端に寄った方がいいかもしれないっすね。多分、”来る”んで」
「え…??」
その後、少し困ったような笑顔を浮かべて東は戸に指をかけた。意図は分からないものの一応彼の言った通りにしよう、と菊は右側の壁へ肩を着けるようにして身を寄せた。それを見てか、東はぐいと勢いをつけ戸を開けた。そして庭が見えた、と思った途端東は戸の影へ身を隠した。と思えば、背後から微かにドンッという音が鳴ったすぐ後、菊の隣スレスレを影が走っていった。菊がヒュッと息を鋭く吸ったのと同時に外から衝突音と悲鳴が聞こえてくる。
「うおっ?!!」
「……おいおい…こんなんで倒されといて、うちの若が守れるとは思えんわ」
「ならお前やったらこれ避けれんけ…!!」
「はぁ?楽勝に決まってるやん、お前みたいな生臭坊主とはちゃうんや」
「おお、おお、ほんならやったるわ。ほら立てま、その軽い口開けんようにしたるさけ」
「あ?なんやと??」
一気に空気が変わった。まるで一般人の想像するヤクザ…そのものだ。菊の属している家は人数がかなり多く、出身地もそれぞれ異なるので方言を聞く機会も多い。が、みなが公共の場…菊の父の前で話すのは標準語がほとんどだった。そのため、幼かった菊が彼ら彼女らのなまりを聞くことは少なかったのだ。
それが、彼ら二人の言い合いでガラリ、と映画のフィルターがかけられた気がした。ベタベタの関西弁に、イラつきにより加速したどこかのなまり。二人の圧に目を細めて動けないままいると、ふと蘭と目が合った。
「………おはよお、菊」
「…え、あ…はい…おはようございます」
その声だけはいつもの彼のように穏やかで、思わずきょとん、とした顔を菊は浮かべた後、たどたどしくそう返した。ぎゃん、と蘭に噛み付こうとした阪も呆気にとられたような顔をして口をぐう、と歪めた。
「ほや、行こう」
襟元を掴んでいた阪の手を蘭は払い、菊のバッグを自身の肩にかけながら言う。昔の病弱でいつも白い顔をしていた菊を知っているからか、荷物を持つ、といったようなことが彼の癖になってしまっているのだろうか。そうだったら申し訳ないな、と思いながら返してもらおうと彼に手を伸ばす。しかし、当の彼はぽかんとした顔をしてバッグを返す素振りもない。「…あの、」と声をかける寸前、伸ばした手を、それはそれは丁寧に拾われた。
「……はい?」
「…なんや、エスコートさせてくれんとちゃうんけ」
「…私はもう健康体ですよ、蘭さん」
「ほやっても俺よりちいせぇのは事実やざ」
「……ソーデスネ…」
推定180……いや、190を越していそうな彼を見あげてため息を零した。彼と話していたら首が疲れそうだ…なんだか、反論する気が一気に起きなくなった。掬われた手を振り払うこともせず、できるだけ彼のエスコートを気にしないように目線を外して立ち上がる。とんとん、と何度かつま先を石畳にぶつけて靴をしっかりと履いた。未だ繋がれている離さずにいれば、蘭はくい、と口角をかすかに上げた。「なんですか」と聞けば、「なんでもねえ」と返ってくる。……そんなわけないのに。
「…私がそんなに愚かにみえますか」
少し頬を膨らませながら、彼の顔を見上げてそう尋ねる。あぁ、一切目線が合わない…。
「いいや、見えん。けどあんまりにもおぼこぉて…」
くくく、と抑えきれない笑いを隠すように彼は大きな手で端正な口元を覆った。その顔がどこか楽しそうで面白くなかった。子供扱い、されている気がする。なにか仕返してやろうと少しの間思考して、ふと思いつく。上の方にある彼の顔を一瞥してからにこりと笑った。
「………あらまあ、笑っているのを隠すなんて…蘭さんったらかわいい」
手を抜き取ってそれを口元に寄せる。少し笑う真似をしてから戻す動作の流れで蘭の肩から自身のスクールバッグを抜き取った。そしてそれを自分の肩へ移動させる。動かないまま静止している彼は無視するようにして菊は出入口の戸をくぐり抜けた。踵を返して向き直ると、奥の方で京さんが笑っているのが見える。相当面白いのか、目元を何度か上品さを一切に欠けず拭っているよう見えた。今のは彼女からの教えだ。上手く行きましたよ、師匠と言った感じでウインクをすれば京も、瞬きと微笑みで返してくる。
教わった技も上手くいったことだし、行こうか、と門へ向かっていく。数歩して木で造られた重厚な扉に手をかける、と同時に後ろからかすかに駆けてくる音が聞こえた。あぁ、彼だ。
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