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港町を離れ、ガタゴトと揺れる馬車に揺られること三日。
潮風の香りはいつの間にか消え失せ、代わりに濡れた土と深い緑の匂いが鼻を突くようになった。
俺が隠居先として選んだのは、地図からも抹消されかかっているような
鬱蒼とした森の最奥に佇む古い石造りの屋敷だ。
かつて稀代の賢者が住んでいたという曰く付きの物件だが
長年放置されていたせいで外壁には蔦が絡まり、庭は膝丈まで雑草に覆われている。
だが、それでいい。
人目を避け、静かに余生を過ごすにはこれ以上の場所はない。
それに、俺の魔力で術式を編み直し、基礎から補強してやれば
ここは世界で最も安全な、最高の「要塞」へと変貌するのだから。
「……ここが、今日から俺たちの家だ」
重厚な樫の木の扉を押し開けると、埃の舞うホールに午後の柔らかな光が差し込んだ。
背後にいたルナが、ビクッと肩を揺らし、恐る恐るその一歩を踏み出す。
彼女はまだ、自分が「自由」になったという現実を咀嚼しきれていない。
俺が少しでも歩を早めれば、置いていかれまいと必死に足音を殺してついてくる。
その小さな手は、俺のコートの裾を片時も離そうとせず
まるで嵐の中で親とはぐれた仔猫のように、周囲を鋭い警戒の眼差しで窺っていた。
「そんなに怯えるな。ここには俺とお前以外、誰もいない。お前を罵倒する奴も、冷たい檻に閉じ込める奴もな」
俺は彼女をリビングの大きなソファに座らせた。
長年使われていなかったせいで少し硬くなっているが、それでも奴隷商の檻よりはマシだろう。
俺は一息つくと、荷物の中から厳重に梱包された一つの小箱を取り出した。
港町を発つ直前、馴染みの偏屈な宝飾職人を叩き起こし、無理やり言い値で買い叩いてきた代物だ。
「これ、受け取ってくれ」
箱の蓋を開けると、そこには透き通った青い輝きを放つ、精巧な薔薇を象った髪飾りがあった。
ルナが大きく目を見開き、信じられないものを見るような顔で、俺の瞳と髪飾りを交互に見つめる。
「お前の胸にある呪印……あれは欠陥品だ。周囲から無差別に魔力を吸いすぎて、内側で飽和し、暴走しているに過ぎない。いわば、出口のないダムのようなもんだ」
俺は彼女の瞳の高さまで腰を落とし、静かに言葉を続けた。
「この髪飾りには、俺が独自の術式で編み上げた『魔力循環回路』を付与してある」
「これを身に着けていれば、お前の呪いは、お前の意志で自在に操れる『力』へと昇華される。……もう、自分の力に怯える必要はないんだ」
俺は震える彼女の肩に手を添え、不器用な手つきでその細く柔らかな銀髪に飾りを挿した。
その瞬間
彼女の体から無意識に溢れ出し、周囲を凍らせていたピリついた冷気が、スッと霧が晴れるように収まっていく。
室内の温度が劇的に安定し、彼女の肌に赤みが差した。
「…………っ」
ルナが、驚いたように自分の胸元にそっと手を当てる。
絶えず彼女を蝕み、神経を焼き切るようだった疼きが消えたのだろう。
彼女は鏡を見ることもせず、ただ、髪に触れる青薔薇の感触を確かめるように指を這わせ
少し潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「……似合ってるぞ。その青、お前の瞳と同じ色だ」
本心からそう告げて、彼女の頭を軽く撫でる。
すると、彼女は真っ白な肌を耳まで真っ赤に染め上げ、勢いよく俯いてしまった。
どうやら「褒められる」という経験も、彼女にとっては未知の攻撃と同じくらい衝撃的だったらしい。