テラーノベル
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「……若井。……あ、……また鳴ってるよ」
薄暗い寝室。
元貴の声は、数日間外気に触れていないせいか、
ひどく熱を帯びて、湿り気を帯びていた。
若井の胸元に顔を埋め、震える指先で若井のシャツの裾を掴む元貴。
その視線の先では、床に放り出された若井のスマートフォンが、無機質なバイブレーション音を立てていた。
電源を切っていたはずだった。
けれど、充電が切れる間際の最後のあがきのように、画面には「母」という二文字が点滅している。
「……放っておけよ。
……俺には、もう関係ないんだ」
若井は元貴の腰をさらに強く抱き寄せ、
その首筋に鼻先を押し付けた。
シダーウッドの香水はもうとっくに消え、代わりに、二人分の体温と、閉じ込められた部屋特有の、甘く、どこか頽廃的な匂いが立ち込めている。
若井は、自分が築き上げてきた「若井」という社会的な皮を、一枚ずつ剥ぎ取っていく感覚に酔いしれていた。
優秀な社員、頼れる同期、親孝行な息子。
……そんなものは、元貴のこの、壊れやすくて温かい肌に比べれば、何の価値もないゴミクズだ。
「……でも、若井。……このままだと、いつか……ドアを壊して、あいつらが来ちゃうよ。
……涼ちゃん、怒ってるだろうな。……僕を、また『歌う道具』に戻そうとするんだ」
元貴の瞳に、一瞬だけ、過去のトラウマがフラッシュバックする。
ステージの上で、何万人の視線に晒され、喉から
血が出るまで叫んでいた自分。
それを「才能」という言葉で縛り付けていた、涼架。
「……させない。……そんなこと、絶対にさせない」
若井はガバッと起き上がると、クローゼットの奥から、ずっと使っていなかったボストンバッグを引き出した。
中には、必要最低限の着替えと、現金。そして、あの銀色のスペアキー。
「……行こう、元貴。……ここじゃない、どこかへ。……俺とお前、二人きりになれる場所へ」
「……どこへ? ……僕、もう、どこにも行けないよ。……足が、動かないんだ。……君に甘やかされすぎて」
元貴が自嘲気味に笑い、ベッドから足を下ろす。白く細い足先が、冷たいフローリングに触れる。
若井はその足を両手で掬い上げ、恭しく口づけた。
「……俺が運ぶ。……お前の足も、目も、声も。……全部俺が、預かるから」
午前4時。
街が動き出す前の、最も深い闇。
若井は元貴に自分の大きなコートを着せ、
深くフードを被らせた。
301号室のドアを、初めて「内側から」ではなく「外側から」閉める。
カチリ。
その音が、若井が20数年かけて積み上げてきた
「日常」との、永別の合図だった。
エレベーターは使わない。監視カメラを避け、非常階段を一段ずつ、元貴の手を引いて下りていく。
元貴の体温が、繋いだ手から痛いくらいに伝わってくる。
「……若井。……怖い?」
階段の踊り場で、元貴がふと足を止めた。
若井は振り返り、闇の中で元貴の瞳を見つめた。
そこには、自分への恐怖ではなく、
自分と同じ「狂気」への期待が宿っていた。
「……いいや。……お前が隣にいるなら、
地獄だって怖くないよ」
二人は、湿った夜風が吹く地上へと降り立った。
向かう先は、地図にも載っていない、二人だけの「檻」。
涼架の声も、会社の電話も届かない、
本当の静寂へ。