テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
設楽理沙
675
#不倫
設楽理沙
349
864
芙月みひろ
865
第五十五話 隣にいる人
ベンチの前で、二人はしばらく動かなかった。
写真の中では、何度も見ていた場所。
でも、実際にそこに立ってみると、
言葉では説明できない感覚があった。
「座る?」
彼女が言った。
「うん」
二人はベンチに並んで座った。
少しだけ距離を空けて。
それが妙におかしくて、彼女が笑う。
「なんでそんな離れてるの?」
「いや、初対面だし」
「今さら?」
「今さら」
また笑った。
ネットでは、もっとくだらないことで笑っていた。
なのに、こうして隣に座ると少し緊張する。
しばらくして、彼が口を開いた。
「実際に会ってみてどう?」
「思ってたより普通」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
二人で笑う。
その瞬間、彼はふと思った。
この感じ。
この会話。
初めてのはずなのに、どこか懐かしい。
でも、今はその理由を考えないことにした。
「写真、見せて」
「これ?」
彼女がスマートフォンを差し出す。
写真には、同じベンチが写っている。
二人は写真と目の前の景色を交互に見た。
「やっぱり同じだね」
「うん」
彼は写真を拡大する。
そのとき、写真の端に
小さく写っているものに気づいた。
「これ……」
「何?」
「ベンチの下」
そこには、小さな傷のようなものがあった。
今のベンチにも、同じ場所に傷がある。
彼女がしゃがんで確認する。
「本当だ」
「昔から残ってるんだ」
「すごいね」
それだけのことだった。
でも、彼は妙に安心した。
写真の中の場所と、
今いる場所がちゃんとつながっている。
過去を全部思い出せなくても、
それだけは確認できた。
二人はベンチを離れた。
次に向かうのは駅だった。
歩きながら、彼女が言った。
「ねえ」
「ん?」
「今日は、事故のことを調べるのやめない?」
彼は少し考える。
「どうして?」
「せっかく会えたんだから、ずっと昔のことばっかり考えるのももったいないかなって」
彼は少し笑った。
「確かに」
「今日は普通に遊ぶのもありじゃない?」
「いいね」
それから二人は、予定を少し変えた。
駅へ向かう途中の店に入る。
写真に写っていた店とは違う、今の店。
飲み物を買って、近くの席に座る。
ネットで話していたときと同じように、
くだらない話をした。
好きなもの。
苦手なもの。
最近ハマっていること。
知らなかったことが、少しずつ増えていく。
過去の二人が何を話していたのかは分からない。
でも、今の二人には今の時間がある。
店を出るころには、
最初の緊張はほとんどなくなっていた。
駅へ戻る道で、彼が言った。
「今日、来てよかった」
彼女は少し驚いた。
「私も」
二人は並んで歩く。
夕方の光が、道路を長く照らしている。
その景色を見た瞬間。
彼の足が一瞬だけ止まった。
どこかで見た景色。
でも、今度は怖くなかった。
ただ、胸の奥に小さな記憶の欠片が残った。
誰かと並んで歩いた。
それだけ。
顔も。
声も。
言葉も思い出せない。
彼はそのまま歩き出した。
隣には、今の彼女がいる。
そして二人はまだ知らない。
その「誰か」が、
ずっと探していた相手なのかどうかを。
コメント
1件
ああ、第55話、読み終えました……。ベンチに並んで座る二人の、ほんの少しの距離感がすごくリアルで、こっちまで照れてしまうような気持ちになりました。ネットで話してたのに、実際に会うと緊張する感じ、すごくわかります。「今さら?」「今さら」のやりとり、思わず笑っちゃいました。 ベンチの下の傷に気づくところ、写真と今がちゃんとつながってるって確認できる瞬間、読んでる私もほっとしました。過去を調べるのをやめて、ただ今を積み重ねていく二人の時間が、すごく優しくて……。最後の「その『誰か』が、ずっと探していた相手なのかどうかを」の一文が胸に残りました。クラリスさん、素敵なエピソードをありがとうございます🌷