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リフェアリー
128
午前三時十二分。監視画面のアラートは、赤ではなかった。
緑だった。
土師要は、缶コーヒーを置いて画面に顔を近づけた。決済システムの夜勤は、赤い警告を潰す仕事だ。緑は正常の色で、要が七年間見てきた中で、緑が「おかしい」と感じたことは一度もない。
なのに、おかしかった。
毎時のバッチ照合。送金元の帳簿と送金先の帳簿が一致しているかを確かめる処理が、全件一致で通っていた。一致率、百パーセント。それ自体は珍しくない。珍しいのは、その下に並んだ数字だった。
照合対象件数、四百十二万件。
一時間前は、三百九十万件だった。
「増えてる」
送金が増えたのではない。深夜三時に二十万件も送金は起きない。増えたのは、記録そのものだった。
要はログを開いた。ある一件の送金を追う。午前二時四十分、渋谷の口座から新宿の口座へ、三万二千円。記録は正しい。ハッシュも、署名も、タイムスタンプも、承認者も、全部そろっている。
同じ送金が、もう一件あった。
午前二時四十分、同じ口座から同じ口座へ、三万二千円。ハッシュは違う。でも、正しい。署名も正しい。承認者も正しい。
もう一件。もう一件。
要は数えるのをやめた。画面を下にスクロールすると、同じ送金が、どこまでも続いていた。どれも正しかった。どれも本物の署名を持っていた。そして、どれが本物なのかを判定する手段が、システムのどこにもなかった。
「……盗まれてない」
声に出してみて、背中が冷えた。盗まれていない。消されてもいない。壊されてもいない。ただ、増えている。本物が、本物のまま、増えている。
要は上司に電話をかけた。三回目で出た寝ぼけ声に、要は言った。
「侵入されてます。たぶん、全部」
「全部って、何が」
「わかりません。わからないのが、問題です」
朝七時、要は会社のビルを出た。上司は「とりあえず来い」と言ったきり、折り返してこなかった。電話がつながらないのではない。つながるが、誰もが「それは本当に俺か」を確かめられなくなったのだと、要はあとで知ることになる。
駅前のコンビニは、開いていた。
要はおにぎりを二つ取り、レジで電子マネーをかざした。
『決済完了』
画面にそう出た。店員は会釈した。要は、礼を言おうとして、固まった。
画面の下に、小さく残高が出ている。
『残高 ¥48,210』
要の残高は、昨夜まで、二十三万円あった。
「……すみません。もう一回、かざしていいですか」
店員が怪訝な顔をする。要はもう一度かざした。
『残高 ¥231,400』
要はもう一度かざした。
『残高 ¥1,048,210』
店員の顔が変わった。後ろに並んだ客が、画面を覗き込んだ。
「増えた」
誰かが言った。誰かが笑った。誰かがスマホを出して、自分の口座を開いた。笑い声が、止まった。
要はおにぎりを握ったまま、コンビニを出た。
歩道で、人が立ち止まっている。全員が、同じ角度で、手の中の画面を見ていた。誰も叫ばなかった。叫ぶには、何が起きたのかがわからなすぎた。
要は思った。これは強盗じゃない。強盗なら、損をするだけだ。損なら、計算できる。
計算できない。
それが、いま起きていることの正体だった。
スマホが震えた。妹のひかりからだった。
『お兄ちゃん、ニュース見た? こっち大丈夫。木曽は電気も水も普通。お兄ちゃんは?』
要は返信を打とうとして、指を止めた。
妹の文面だ。妹の言葉遣いだ。「お兄ちゃん」の後にひとつ空白を入れる癖も、妹のものだ。
でも、それを確かめる方法が、要にはなかった。
昨夜、システムの中で、本物の署名を持った偽物が無限に増えるのを見た。あれが銀行だけで起きたと考える理由は、何もない。このメッセージが、妹が打った一通目なのか、ゼロ番目なのか、千二十四番目なのか。
要は息を吐いて、打った。
『無事。あとで電話する』
送信した瞬間、思った。この「無事」も、向こうでは確かめられない。
信用は、金じゃない。要はずっとそう思ってきた。金は信用の影だ。影を動かしていたのは、記録が正しいという、たったひとつの前提だった。
その前提が、たったひと晩で、消えた。
要は歩道の真ん中で、画面を消した。顔を上げると、ビルの壁面の巨大なディスプレイに、株価が流れていた。日経平均、前日比、マイナス〇・三パーセント。
正しそうな数字だった。
要は、その数字が何の価格なのか、もうわからなかった。
コメント
2件
ありがとう
この設定、すごく好みです。「盗まれても消されてもいない、ただ増えている」という異常の出し方が新鮮で、一気に引き込まれました。特にシステムの署名は全部本物なのに、どれが正解か判断できない——というロジックの積み方が上手い。コンビニで残高が次々変わるところの緊張感、妹からのメッセージすら信用できなくなる不安も、現実的で怖かったです。続きが気になりすぎます。