テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
臣桜
352
臣桜
48,287
#女主人公
#シークレットベビー
朝永ゆうり
2,216
コメント
1件
このエピソード、すごく沁みました。「音楽を憎みきれなかった」という締めの一文が胸に残ります。母から子へ、そして孫へと受け継がれた『きらきら星変奏曲』が三人を結びつける象徴になっていて、百合さんと尊くんの過去と現在が音の上で通じ合う感覚がありました。サイレントグランドピアノの逸話も、父への複雑な感情をリアルにしていて、単なる憎しみじゃない人間関係の厚みを感じます。
「ありがとう、尊」
彼女がグランドピアノの蓋を開けた瞬間、『きらきら星変奏曲』の序盤にある、シンプルなテーマの直後にある、バリエーション1が流れ始めた。
百合さんは口を閉ざし、曲が一周するまでオルゴールを聴いていた。
しずかなホテルのロビーに、まるで星の瞬きそのもののような可憐な音が響いていく。
やがて彼女はそっと蓋を閉じ、微笑んだ。
「……さっきお風呂で朱里さんとも話していたばかりなの。……私、さゆりが小学一年生の発表会でこの曲を弾いた時、ミスしてしまった事を怒ってしまったわ。……あとになってから『緊張していたから、ちゃんと最後まで弾ききった事を褒めてほしかった』と言われて、とても気まずく思ったの。……でも当時はプライドが高くて、さゆりに謝る事ができなかった」
それを聞き、俺は念のため尋ねる。
「お気を害してしまいましたか?」
「いいえ。さゆりが弾いた曲は、すべて私の大切な思い出だわ」
安心した俺はそっと息を吐き、この曲に込めた想いを伝える。
「『きらきら星変奏曲』は、母が大好きだった曲なんです。……小学一年生の時に弾いた曲だとも聞いていました。……七歳の子供にしては、とてもレベルが高くて凄いと思います。自分にもその母の血が流れていると思うと、誇らしくなりました。……母は幼稚園まで自分にとって簡単な曲でしか発表会の場に立てず、『きらきら星変奏曲』の時は少し無理を言って『弾きたい』と希望を通したそうですね?」
「ええ。『あなたにはまだ無理』と言ったけど、食らいついて練習をして結局全曲弾いてしまうものだから、驚いたわ。……だから余計に才能があると思って期待してしまったの」
百合さんは懐かしそうに、どこか寂しそうに微笑む。
「母は『大人の仲間入りが許された気がした』と言っていました。……だからミスをして怒られた事はさほど気にしていなくて、その曲を舞台で弾けた事自体に大きな価値を見いだしていたんです」
「……そうなの……」
彼女は驚いたように瞠目し、呟く。
「……確かに教える側としては、ノーミスで完璧に弾ききる事を求めがちです。ですが母は『きらきら星変奏曲』をきっかけに色んな曲にチャレンジする機会を得て、様々な曲を知り、弾ける喜びに満ちあふれていました。本当は学校にも行かず、一日中ピアノを弾いて過ごしたかったほどだと言っていました」
百合さんは何かの感情を抑えるように、キュッと唇を引き結ぶ。
「母の人生は音楽と共にありました。家を出ざるを得なかったあと、しばらくはピアノに触れる事もできなかったと思いますが、結局は父が母に住む場所とグランドピアノを与え、彼女に音楽を取り戻した。……俺の父の事が憎いでしょうけど、そのお陰で俺と母、あかりは音楽と隣り合わせの生活を送れました。……悪い事の中にも、良い因子はあるんです」
「……そうね。篠宮さんがそういう環境を与えてくれなかったら、あなたはピアノを弾いていなかったと思うわ」
彼女は静かに答える。
「母はとても楽しそうにピアノを弾き、教えてくれました。父はいいマンションを用意してくれましたが、防音室であっても時間を問わず弾くには限度があったので、サイレントグランドピアノを買い、思いきり弾ける環境を整えてくれました。それには感謝しているんです」
通常、アップライトピアノでは後付けでも、真ん中のマフラーペダルを押しっぱなしの状態にする事で、消音ユニットを使って電子ピアノのようにヘッドフォンで音を聞きながら練習できる。
グランドピアノでも不可能ではないが、若干音が狂ってしまう恐れがある。
それを考慮し、父は母には良い物を使ってほしいとの事で、音にズレが生じないサイレントグランドピアノを買い与えた。
あとから知れば三千万円近くする買い物だったが、好きな女のためには惜しくなかったようだ。
俺からすれば『好きな女に好きな姿でいてほしい』というエゴでしかない。
けれどそのお陰で、自分は音楽と共に生きられたと思うと何とも言えなくなるが。
「……俺も母が好きな曲をすぐにマスターしました。妹も一番好んでいた曲で、よく『お兄ちゃん弾いて』とせがまれました。……俺は楽譜を見て曲を弾き、妹がヘッドフォンで聴いているんです。……妹も簡単なメロディーを繰り返し弾き、喜んでいました。あの曲が俺たち親子を繋げてくれたと言っても過言ではありません」
俺はオルゴールに目を落とし、微笑む。
「あなたにとって、母にまつわる思い出はすべてつらいものかもしれません。ピアノの曲も『大切な思い出』と言ってくれましたが、悲しみがなかったはずがありません。……俺も、一度は音楽を、……クラシックを憎みました。……父が求めるままに、あの家で自分の価値を示すために、『優秀な成績を収めないとならない』と思って詰め込むように練習を繰り返して〝コンクール荒らし〟と呼ばれ、弾けば弾くほど自分がすり減るように感じました」
俺は当時の事を思いだして苦く笑ったあと、クシャリと破顔する。
「……けど、音楽を憎みきれなかった」