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百合さんはそれを聞き、頷いた。
「……私もだわ。自分が厳しすぎたせいで、大切な娘を喪ってしまったかもしれない。あの子に才能を見いだしたがゆえに執着し、過度な期待をしたばかりに、さゆりは『自分にはもっと他の生き方があるはずだ』と思って〝他〟を見ようとしたのかもしれない。……あの子が選んだ道がすべて間違いとは言わないわ。……そのお陰で今こうして尊と話せているのだもの。……でも、後悔して色んな〝たられば〟を考えてしまう。……私があの子にピアノを強制していなければ。……あの子に『二度とこの家の敷居をまたがないで』と言わなければ……」
その声には、深い悔恨が宿っている。
きつい事を言ってしまった自覚がある分、後悔は大きくなる。
彼女はなおも続ける。
「さゆりにピアノを習わせなければ……と思ったけれど、何度想像しても、私は愚かにもあの子に音楽を教えてしまいそうだわ。……それぐらい、音楽に愛された子だった。……私たち一家は、音楽に囚われてしまっているのかもしれない。……それでも、音楽を憎めないの。……好きで、好きで堪らない。……それが私の人生だったの。……夢中になれる事がある人生を誇りに思っていたけれど、それで大切な人を喪ってしまったのだとしたら……っ。――――それでも……っ」
百合さんの声が涙に崩れ、俺はテーブルの下でギュッと手を組む。
しばらく、静かなロビーに彼女の嗚咽が響いた。
俺はポケットの中に入れていたティッシュを出し、テーブルの上に滑らせる。
「……ありがとう」
百合さんはそれを使い、少し経ったあと落ち着きを取り戻した。
彼女の慟哭を聞いた俺は、ポツポツと思った事を述べていく。
「夢中になれる事があるって、素晴らしい事だと思います。……少なくとも俺は、篠宮家で〝要らない子〟として冷遇される中、ピアノに打ち込む事で現実のつらさを忘れられました。……あまりに大切なものができると、家族や友人、恋人とそれを天秤にかけなければならない時が来るかもしれません。……夢中になれる趣味でなくても、信頼できる人よりも金さえあればいいという人もいるでしょう。音楽だけでなく絵画や彫刻など、アートに人生を捧げる人もいる。……天からギフトを授かっても、進学や結婚、仕事、子育てに追われて、その才能を披露する機会を失っていく人もいます。ギフトを受け取り、全身全霊で愛していける人は、恵まれていると思います」
「……そうね」
彼女はティッシュで眦を押さえ、静かに頷く。
「人は価値観を共有できる人を好みます。俺も深く音楽の話ができる人がいると、つい饒舌になります。そしてもしも、朱里や子供が音楽に興味を持ったら、望む範囲で教えたいと願うでしょう。……それ自身は悪い事ではないと思っています。たとえ音楽に夢中になったとしても、それが本業で人生を懸ける仕事、生きがいになったなら、家庭を顧みないとしても仕方ないと思います。世の中には一定数、スポーツマンにしろ、そのような人々がいるから、我々の世界が成り立っているのですから」
俺は組んだ手をテーブルの上に載せ、彼女に笑いかけた。
「……だから、あなたは悪くありません。……実際母は、俺やあかりに一言たりとも恨み言を口にしていませんでした。……あまり速水家の話をすれば返答に窮してしまうから、話題にする事は少なかったですが、『お母さんのお母さんは、とてもピアノが上手なのよ』と誇らしげに言っていました。……後悔する気持ちは分かります。でも『恨んでいたに違いない』とか、根拠のない想像で、母を否定する必要はないです」
「……ありがとう。気持ちが軽くなったわ」
百合さんはオルゴールの輪郭を指でなぞり、尋ねてきた。
「さゆりはどんな母親だった?」
「そうですね……」
俺は少し前のめりになり、昔を思い出す。
「いつも楽しそうな人でした。……小牧ちゃんや弥生ちゃん、明るくて楽しいでしょう。ちえりさんは落ち着いた年齢になりましたが、若かった頃は同じような気質をしていたように思えます。……母も、とても明るかったです。思い出すのは笑顔ばかりで、料理はあまり得意ではなかったんですが、動画を見て色んな料理にチャレンジして、失敗して『ごめんね』と笑い、みんなで『まずーい!』と言って、笑って食べました。でも次に作る時は必ず成功させていました。作法とかもちゃんと教えてくれて、ハンバーグを食べる時にフレンチレストラン風にカトラリーを並べ、練習した事もありました。……精神面でも、『悪い事をしたら絶対自分に返ってくる』って強く言われましたね。……そして『何をされても相手を憎まず、許してあげる気持ちを持って』とも言われました」
心の奥にしまっていた母の思い出が、色づいて蘇ってくる。
「母は自分たち親子が、……篠宮怜香に望まれない存在だと自覚していました。……だから余計に、仮に誰かから責められる事があっても、ふて腐れず誇りを胸に掲げて〝善い人〟であってほしいと望んでいたのだと思います。……母と妹を喪って、あの家で暮らし始めた俺は、一度人らしい心を失いました。……それでも、母の教えや言葉が、まるで信仰のように心の底に光を当て、〝今〟幸せに生きているここまで導いてくれたんだと思っています。……母は、凄い人です」
百合さんはグスッと洟を啜り、ロビーの遠くを見る。
そのまま何か考えたあと、噛み締めるように、ゆっくり何度も頷いた。
コメント
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第875話、読み終わりました。百合さんの深い後悔と、それを受け止める「俺」の諭し方がとても丁寧で、胸に沁みました。特に「根拠のない想像で母を否定しないで」という台詞、あれは本当に彼女の救いになったと思います。母の思い出が「色づいて蘇る」という表現も美しく、音楽と人生の選択、善く生きることの連鎖――このエピソードで設定の厚みがさらに際立ちました。素敵な回でした。
臣桜
352
臣桜
48,287
#女主人公
#シークレットベビー
朝永ゆうり
2,216